御船山

中村凉庵(なかむらりょうあん)(1809〜1877)


種痘法則


 種痘法則(武雄市蔵)

 疱瘡(天然痘)は、江戸時代、特に恐れられた伝染病の一つで、疱瘡への免疫をつけようとする種痘は、18世紀中頃日本に伝えられたものの安全性に問題があった。18世紀末、西洋で安全な牛痘種痘法が発見され、佐賀藩では1849(嘉永2)年にこれを試み、日本での牛痘普及の始まりとなったのは有名である。
 これに対し、武雄では1839(天保10)年(一説には1837年)、中村凉庵によって牛痘種痘が実施されたとする口伝・伝記があり、それが真実なら、すでに佐賀藩よりも早く牛痘が実施されていたことになる。
 中村凉庵は、武雄鍋島家の家臣。武雄の資料中には群治(郡治)の名でもしばしば登場する。現在の武雄市西川登町弓野に生まれ、医者を志し京都に遊学、さらに先進の西洋医学習得のために長崎に出た。最近の調査で、武雄と長崎の間を頻繁に往来しながら蘭学関係の書籍・物品の導入にも奔走する彼の姿を見いだした。武雄や佐賀における最新科学技術の発展に多大の功績を残した凉庵の一面が浮かんでくる。
 一方、「長崎方控」(武雄鍋島家資料)には、1849(嘉永2)年、群治が蘭医直伝の牛痘種痘を、娘と彼の知り合いの子両名に9月2日朝(長崎で)施し、武雄に連れ帰ったとあり、種痘施術の唯一の記述を確認した。従来の謎に新たな見地をもたらす記述である。(中村凉庵年表へ

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