御船山

山口良吾(やまぐちりょうご) (1883〜1954)


山口良吾景仰碑


 山口良吾景仰碑(白石町 八坂神社境内)
 山口良吾が宮司を務めた白石町の八坂神社境内には、1953年、彼の功績を讃える石碑が建立された。同地には弥栄図書館も残り、1947年、廉潔の志を貫き33歳で他界した長男山口良忠氏(当時、東京地裁判事)の記念文庫も置かれている。

 杵島郡白石町に生まれた。溝上忠友が1883(明治16)年、高等教育を授ける訓導(教師)育成を目指し、杵島郡福治村(現在の白石町)甘治に設立した自琢(じたく)学舎に学んだ。「自琢」とは、自らが切磋琢磨するという意味で、この学舎で学んだことが山口の教育観に大きな影響を与えたと思われる。1906(明治39)年、佐賀師範学校卒業後、杵島郡内の小学校校長などを歴任した。
 とりわけ、1922(大正11)年からの橘尋常小学校(現在の武雄市立橘小学校)校長時代には、19世紀末にイギリスに始まり世界中に広がりを見せた、子供の自主的・主体的な活動を尊重する児童中心主義を唱える「新教育運動」の先駆者・推進者として活躍、また学校教育の中で郷土の先人たちを取り上げて道徳教育の高揚を図ったことなど、当時の教育界に一石を投じたことは注目に値する。
 1929(昭和4)年、八坂神社(白石町)宮司となった山口は、翌年には小学校長を辞任。農村青年の教育に情熱を抱き、私財の大半を投じ弥栄義塾を創設、併せて私設図書館や幼稚園も設けた。弥栄義塾には町内から多くの塾生が通い、相互に家族のように交わり人格を尊ぶ風があったというが、戦後の学制改革による農業高校や定時制高校の開設で塾生は次第に減少した。山口はまた、佐嘉神社宮司・県神社庁長を務め、『佐賀県干拓史』『佐賀史談』など、郷土史研究にも優れた業績を残している。
 「御巡幸(みゆき)(みぎり)(のたま)ひし かし(か し)(なま)りて杵島郡 打出の槌の形して 一町二十二箇の村」。平成20年末、武雄市文化会館で開かれた武雄町公民館祭で、婦人たちの麗しい歌声が響いた。全28番からなる杵島郡郷土唱歌である。この歌は、地理教育と郷土愛の高揚を図る目的で、1914年に山口が作詞したもので、杵島郡内の町村名に、名所旧跡・歴史・地理・物産を織り込んだ。郡内各学校へ熱心に普及を図ったため、大正時代に学校で学んだ人達にとっては懐かしい歌である。山口は、誇りある郷土の未来の姿に期待を込めて、次のような歌詞で締めくくった。「思うもゆかしわが(さと)の 言うも(はえ)あるわが郷の そのさとの名を内外(うちそと)に ()ぐるぞ我等の(つとめ)なる」

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