御船山

岩谷龍一(いわやりゅういち) (1830〜1900)


羽州御陣中諸所絵図


 羽州御陣中諸所絵図(武雄鍋島家資料 武雄市蔵)
 武雄軍団の参謀として岩谷龍一が活躍した羽州戦争当時の絵図

 岩谷家は、武雄の御用絵師白如斎・温古斎の系譜を引く。龍一の祖父の代、1802(享和2)年より武雄の士籍に列した。
 龍一は、1830(天保元)年12月武雄に生まれた。幼い頃から武雄の医師清水宗庵の門下となり医学を志したが、後に脱藩し京都に出た。生来、多芸多能で(書にも巧みで)あったが、京都での苦学中は学資に窮すと夜陰に乗じ按摩となったり阿呆陀羅経を語ったという。また、ある日、京都の町で高杉晋作とすれちがい、その姿の異風さに振り向くと、高杉も同様に振り返り笑い掛けたため、意気投合。以後、互いに交際し、遂にともに長州へ至り井上馨らと交わり、大村益次郎から蘭語を学び洋式の兵学を研鑽したと『武雄史』に伝える。
 幕末、武雄に帰り、領主鍋島茂昌から武雄の武士の子弟の学校身教館の監督、および洋式兵術の指南を命じられ、明治維新期の戊辰戦争では茂昌に従って武雄軍団の参謀として秋田方面での戦闘に出征、武雄の勇名を轟かすことに貢献した。
 1871(明治4)年の廃藩置県で佐賀県少属となったが、翌年、官を辞して東京に出、井上馨の推挙を得て大蔵省四等出仕の内命を受けた。しかし、佐賀から分に過ぎた厚遇であるとして制止に会い任官できず、陸軍中佐を命じられた。このことは彼にとって生涯の遺恨となり、一度だけ墓参のため帰省した外は、終生、佐賀の地を踏まなかったという。
 1876年、司法省に転じ、9月には大審院判事となって、福岡県の秋月の乱の取り調べを担当、裁判長として処断をおこなった。また1878年には、西南戦争に際し西郷隆盛と連携した嫌疑で元老院幹事陸奥宗光を取り調べ、審問すること2時間、遂に急所を衝き、禁固5年の服罪を決定づけた。この時、陸奥は龍一に向かい「鳴呼、岩谷、遂に余を死せしむ」と嘆いたという。「名判事岩谷龍一」の名声を確立する出来事であった。
 岩谷はその後、1884年、名古屋始審裁判所長、1887年、大審院評定官となり、1900(明治33)年、71歳の生涯を終えた。

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