御船山

坂部三十郎(1802〜没年未詳)


高島流神文納


 高島流神文納 (武雄鍋島家資料 武雄市蔵)
 1835(天保6)年、坂部三十郎らが武雄領主鍋島茂義に、西洋式砲術の修行と習得した技術の秘伝を誓約した血判状。武雄領から佐賀本藩への西洋砲術移入の契機となった。

 武雄領主鍋島茂義の異母弟。純三郎、斐三郎、又右衛門、のち順之、明矩を名乗った。『後藤家御系図』(武雄鍋島家資料)に、母は武雄家臣野口幸左衛門の娘とある。1810(文化7)年頃、佐賀藩の坂部八郎大夫明雅の養子に入ったと思われる。同系図附録には「実は享和二壬戌正月十九日生、(坂部八郎大夫)明雅へ養子の時、二歳を加える」とあり、茂義と同じ1800(寛政12)年の生まれとしたと記されている。
 佐賀の坂部家は代々藩の要職を勤め、1865(元治元)年の『佐賀藩拾六組侍着到』(鍋島文庫 鍋島報效会所蔵)には、三十郎は物成四百石、百人余の家来を擁する大組頭であると記される。1835(天保6)年、この坂部三十郎を筆頭に武雄の家臣46人が、茂義に砲術修行の決意を示す血判の起請文を提出し、茂義から直接、西洋砲術を学んだ。また同年、茂義は、三十郎を通じて大砲の雛形を藩主鍋島直正に献上、直正の好奇心を揺さぶった。
 『佐賀藩銃砲沿革史』によれば、さらに1840年9月6日、藩主直正が神埼郡岩田(現在の神埼市神埼郡岩田)で、武雄の西洋式砲術の調練を検閲。茂義が病気のため、坂部三十郎が指揮を代行した。三十郎はすでに頻繁に武雄の永野台場でボンベン(破裂弾)、ブランドコーゲル(焼夷弾)の試射を行ない相当の成績を挙げていた。
 しかし、この演習では午前中、強風のためか予期した成果を挙げえず、午後、三十郎が5発の早込め、早打ちの実弾射撃や西洋銃陣の法を行ない、12町(1,333メートル)離れた的での試射も実施。11日夜には水ヶ江御茶屋でリフトコーゲル(照明弾)の試発も行なった。この演習が、直正の心を動かし、佐賀本藩への西洋砲術導入の直接的な契機となった。武雄領から佐賀本藩への西洋砲術移入の直接的な橋渡し役となったのが坂部三十郎であった。
 ※坂部明雅もまた茂義のおじ(武雄鍋島家からの養子)である。

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