御船山

末藤廣作(すえとうひろさく)(1905〜1958)


末藤廣作


 末藤廣作と愛機(個人蔵)
 付属の台紙から、立川飛行場で撮影したものと考えられる。
 (旧立川飛行場は、現在の東京都立川市・昭島市に所在)

 日本の航空史の黎明期に活躍したパイロット。武雄市武内町出身。武内尋常小学校を卒業後、佐賀県立小城中学校に進学するが、在学中に父親が死去したことから中退を余儀なくされる。
 その後、上京して浜松の航空学校で学び、二等飛行士の免状を得た。
 ライト兄弟が初めてエンジン付き飛行機による飛行に成功したのは1903年。日本では、そのわずか7年後の明治43年(1910)12月に、陸軍の日野熊蔵大尉と徳川好敏大尉が、東京代々木の練兵場で動力飛行に成功している。また翌年5月には、奈良原式二号が国産機として初めての飛行に成功した。
 飛行士は、当時、最先端の花形職業ではあったが、この時代は事故などで命を落とす飛行士も多く、末藤廣作も危険を覚悟で挑戦した若者の一人であったと言えよう。
 飛行機の操縦には高度な技術が要求され、また機体も高価であったこと、その一方で兵器としての有用性が高いこと等から、初期の飛行機の導入には軍部が積極的であった。しかし民間の飛行家も督励されており、末藤廣作は民間の飛行士として活躍した。
 昭和4年5月4日に佐賀市の練兵場で里帰り飛行を行うに当たって、地元に設立された「末藤飛行士後援会」の趣意書には『數千金の私財を投じて、去る三月末を以て最も新式なる飛行機を新調し、我が郷土飛行訪問を試み』(読点は補足)とある。後援会は『その物質上に将又(はたまた)精神上聊か援助の實を擧げんと欲する』としているが、個人で機体を所有できるほどに成功していたとみることが出来よう。
 第二次世界大戦中は、バンコクやマニラへも飛び、復員後の昭和33年(1958)、52歳で没した。

【参考資料】『故郷を愛した人々』(平成21年3月発行・編者:武内町史編集委員会・発行者:山内町)
       『日本の空 日の丸が翔ぶ』(平成15年発行・松尾静馬生誕100年記念実行委員会編)
       『支柱、プロペラ発見』(平成17年6月6日付佐賀新聞)
       『写真集に武雄市出身パイロット末藤氏の雄姿』(平成25年5月18日付佐賀新聞)

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