御船山

山口俊太郎(やまぐちしゅんたろう) (1863〜1923)


ステレオビュー


 岩倉使節団の副使山口尚芳が米欧回覧の土産として持ち帰ったと思われるステレオ写真とステレオビュー
  (武雄鍋島家資料 武雄市蔵)

 岩倉使節団の副使として米欧回覧の旅に出た武雄出身の山口尚芳(ますか)の長男。俊太郎自身も武雄の花島に生まれた。
 尚芳は、米欧回覧に際し、満8歳の俊太郎を従者として同伴した。回覧中、尚芳が大隈重信に書き送った書簡中にも、幼い俊太郎が時にはすでに自ら通訳をかって出るなど、その語学習熟の速さに驚嘆した様子が記されている。津田梅子など、幼くして使節団に同行した留学生は多くいたが、なかでも彼は、一行中で「神童」と称されるほどの怜悧さを持ち合わせていたという。
 俊太郎はそのままイギリスに滞在、9年後に帰国したが、彼の英語はもはやイギリス人と寸分変わらぬほどであった。1887(明治20)年、東京帝国大学工科を卒業、日本の鉄道の発達を見越して再び米国に留学、鉄道運輸や土木工学などの研究を積んだ。2年後に帰国し、鉄道作業局、翌年、28歳の時には、九州鉄道から招聘され運輸課長となった。
 当時の九州鉄道は創業期で貨客が少なかったため、彼は多数の駅員を廃し米国風に列車内で貨客の取り扱いを開始させたという。3年後、大牟田の三井鉱山会社、その半年後には三井物産会社に移ったが、鉄道用務の担当として活躍を続けた。
 また、大正初年には、私財を投じ石油発動機の製作会社を設立、事業に乗り出したが失敗、1923(大正12)年の関東大震災では自宅も被災し、不幸のうちに10月に逝去した。
 しかしこの間、彼は人材の育成にも私財を投じ、武雄出身者のみならず多くの者が彼の自宅に寄宿、また学資や資金を貸与したため、実業界や官界に活躍する多くの人材を送り出した。1939(昭和14)年、現在、武雄市花島の垂玉神社境内に、恩顧を受けた有志により彼の業績を讃える頌徳碑が建立された。

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