御船山

一ノ瀬泰造(いちのせたいぞう) (1947〜1973)

 1947(昭和22)年11月1日、杵島郡武雄町(現在の武雄市武雄町)に生まれる。武雄高校時代は、野球部に所属し甲子園大会へも出場した。
 日本大学芸術学部写真学科を卒業、UPI通信社東京支局に三ヶ月勤めた後、1972(昭和47)年1月20日、“インド・パキスタン戦争”の取材に旅立った。3月には、内戦中のカンボジアに入国、アンコール王朝(9〜15世紀)の寺院遺跡アンコールワットの門前町シェムリアップに腰を据え、すでに指導者ポル・ポト率いる共産主義勢力クメール・ルージュの手中にあったアンコールワットへの一番乗りを夢見た。その後、8月から一年間はベトナムに移り、戦場と銃後にある民衆の生活にカメラを向けた。翌73年8月、多大の危険を冒しながらも、単独、韓国の弾薬輸送船でメコン川を遡り、ベトナムのサイゴンからカンボジアの首都プノンペンに潜入、プノンペン周辺の戦闘、コンボンチャムの攻防戦を取材した。26歳の誕生日を迎えたばかりの11月、現地シェムリアップの親友カンボジア人教師の結婚式に参加、その様子をフォトストーリーにまとめた後、「地雷を踏んだらサヨウナラ」と、日本の知人に言葉を書き送り、単身アンコールワットに潜行、消息を絶った。
 この直後からジャーナリストグループを始め、郷里武雄でもカンボジア政府に対して救出嘆願の署名運動が展開されたが、ふるさとの人々の前に一ノ瀬が再びその姿を見せることはなかった。
 この時期、世界中の数多くの報道カメラマンがインドシナ半島に潜入。命を落とした人々は200人近くに及び、日本人も15名が命を落とした。一ノ瀬の戦場からの報告は、アサヒグラフ、ワシントンポストなどに発表され、彼が残した2万コマの写真フィルムは、その後、両親のもとに返された。激烈で悲惨な戦闘の中、命をかけて一ノ瀬が伝えようとした真実は何だったのだろうか。

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