御船山

立野元定(たてのもとさだ)(1810~1886)


「デッケルの『歩騎砲三兵戦術』」


 武雄蘭書より デッケル『歩騎砲三兵戦術』
 (武雄鍋島家資料 武雄市蔵)

「高野長英翻訳『三兵答古知幾』」


 高野長英翻訳『三兵答古知幾』の写本、原書はブラント著作
 (武雄鍋島家資料 武雄市蔵)

 名は円次郎、のち夢庵とも号した。武雄鍋島家の家臣で儒学者。立野氏の祖は、戦国期、龍造寺氏の重臣として久保田に居住したが、江戸時代の初め頃、領主鍋島茂綱の召しにより武雄に居住するようになったという。元定は、幼少より学問を好み、すでに六歳で漢詩を作り、世人から神童の名で呼ばれた。初め清水龍門に、のちに松尾致孝や草場佩川ら儒学者に学んだ。妻道子(通称モン)は清水龍門の娘で、彼女も儒学に長じたため、夫婦ともに終身、武雄の子弟の教育に力を尽した。
 元定はまた、剣術・馬術を修め、漢詩・和歌に秀で、文章も得意とするなど、万能の才能を有した。兵学では東洋・西洋の兵法ともに得意とし、初め武雄領の政治に参与し、のち邑校身教館の教授となった。
 武雄領では、天保年間(1830~44)以降、西洋砲術を積極的に導入し、佐賀藩の軍政改革の指導的地歩を確立したが、なかでも元定は、ナポレオンが得意とした歩兵・騎兵・砲兵の三兵を用いる戦術を講じた。戊辰戦争では部隊長として出陣、帰郷後は自宅に家塾「静好堂」を開き、1880(明治13)年に設立された中学校の教諭にも就任した。元定は、顔が豊臣秀吉に似るとして「猿先生」とあだ名されたと伝える。生涯、教育に情熱を注いだため、昭和の初めに発刊された『先覚者小伝』には、「地方の人士ほとんどその教を受けざるなし」と記されている。

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