御船山

清水由順(しみずゆうじゅん)(1843〜1893)


経絡人形


 経絡(けいらく)人形 (清水家蔵 武雄市図書館・歴史資料館保管)
 漢方の経絡、経穴(つぼ)を書き記した教育用の人形。京都に留学した清水玄斎が、1700(元禄13)年10月25日に、師の井原道閲(1649〜1720)から授けられたもの。箱書きと付属文書により来歴が判明する、日本で最古級の貴重な経絡人形である。

 幕末から明治前期にかけての武雄の医師。初めは彌三郎を名乗った。父は武雄領主の侍医であった宗安。医家清水家の歴史は古く、江戸時代初めの1610(慶長15)年、京都から武雄に来住、侍医として武雄領主後藤茂綱に仕えたという清水玄有の流れを汲み、以後、400年を経た現在もなお武雄で医業を継承している。
 玄有から4代の時、清水家は二家に分かれるが、その後も両家は連携し、養子交換を繰り返しつつ血脈を継承した。分家には儒学者として著名な清水龍門(大春)を輩出している。石井良一著『武雄史』所収の清水家系図には、兄寛二郎が本家の八代目を継承したが、のち龍門の養子となったため、弟の由順が9代目を継いだことが記される。
 清水家に残る『清水由順君行情』に、由順ははじめ多久の儒学者草場船山に学び、10歳の時、龍門の姉の子である谷口藍田に入門、嘉永から安政年間(1848〜60)に豊後日田の咸宜園、さらに1860(万延元)年から1864(元治元)年にかけては、筑前の調黄溪のもとで漢方医学を研究、翌2年には緒方洪庵の塾で西洋医学を学ぶため大坂に赴いたが、5月、父宗安が病に倒れたため武雄に帰省したとされる。
 1868(明治元)年の戊辰戦争では、領主鍋島茂昌に従い秋田から庄内方面に出動した(今泉家文書の慶応四年『出勢仕組』には「医師」として清水彌三郎の名が見える)。1870年には佐賀好生館に寄宿し医学修行に励んだが、この年、父が病没したため、帰省し医業を継ぐことになった。1876年からは長崎医学校に学び、翌年始まる西南戦争では陸軍御用医として従軍した。清水家には、この時もしくは戊辰戦争の折、野戦病院として掲げられたと思われる「官軍病院」の小旗も残されている。長崎病院治療掛を経て、1882年からは武雄に戻り杵島郡病院(柄崎病院)副院長を8年、1890年からは私立病院長となって繁忙を極めたが、1893(明治26)年、自らも肺病に倒れ、年末に51歳で逝去した。
 医家の伝統を継承しつつ最新の医学を修め、血戦の場に従事するなど、変革と動乱の世上に奔走したその功績と使命感は高く評価できよう。

 索引へ戻る 

肥前全図


 歴史資料館TOPへ 

Copyright (C) Takeo City Library&Historical Museum