近代国家への船出と山口尚芳



海に火輪を 山口尚芳の米欧回覧展図録

「海に火輪を 山口尚芳の米欧回覧」展図録表紙
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1.出航の朝

 明治4年(1871)11月6日、太政大臣三条実美の邸宅で盛大な宴が催された。誕生まもない明治政府が国の威信をかけて、先進米欧諸国回覧の旅に送り出す大使節団の壮行の宴であった。
 「外国ノ交際ハ國ノ安危ニ関シ、使節ノ能否ハ國ノ榮辱ニ係ル…行ケヤ海ニ火輪ヲ轉シ、陸ニ氣車ヲ輾ラシ、萬里馳驅、英名ヲ四方ニ宣揚シ無恙歸朝ヲ祈ル」とは、この場で「特命使節并ニ一行官員」すなわち岩倉具視を特命全権大使とする使節団に対しなされた送別の辞である。
 6日後、11月12日、総勢46名の使節団一行は、18名の随従、43名の留学生らとともに横浜を出航した。
 大使随行として使節団に加わった権少外使久米邦武は出航の日の様子を『特命全権大使米欧回覧実記』の冒頭に「此頃ハ続テ天気晴レ、寒気モ甚シカラズ、殊ニ此朝ハ暁ノ霜盛ンニシテ、扶桑ヲ上ル日ノ光モ、イト澄ヤカニ覚ヘタリ、朝八時ヲ限リ、一統県庁ニ集リ、十時ニ打立テ、馬車ニテ波止場ニ至リテ、小蒸気船ニ上ル、此時砲台ヨリ十九発ノ砲ヲ轟カシテ、使節ヲ祝シ、(つい)テ十五発シ、米公使「デロング」氏ノ帰国ヲ祝ス、海上ニ砲烟ノ気、弾爆ノ響、シバシ動テ静マラス」と書き留めた。久米の漢学者らしい文語調の軽快な言葉の響きにより、船出の朝の横浜港の賑々しさ、使節団一行の凛々しさ、これを見送る人々の期待と緊張、そして興奮さえもが、初冬の日差しと冷気を帯びた空気をともなって眼前に広がる。
 使節団の中心となったのは、特命全権大使岩倉具視(右大臣)、副使の木戸孝允(参議)、大久保利通(大蔵卿)、伊藤博文(工部大輔)、そして武雄出身の山口尚芳(ますか)(外務少輔)の5名。アメリカのサンフランシスコにおいてこの5名を収めた写真はあまりにも有名で、このことから山口尚芳こそは、武雄を代表する偉人として衆知される。

2.山口尚芳の登場

 山口は、天保10年(1839)山口形左衛門尚澄の子として武雄に生まれた。幼名は範蔵。『武雄史』(石井良一著)・『武雄市史』(武雄市教育委員会編)等の記述によれば、彼は、幼少より学問に秀で、十五歳の時には領主鍋島茂義の命により長崎に赴き蘭学を学んだ。のち、長崎に設立された英語伝習所(のちの済美館)で、アメリカ人教師G.F.フルベッキのもとで他藩の俊才と肩をならべ英語の習得に励み、帰郷後、佐賀本藩の翻訳兼練兵掛を仰せつかった。その後、上京して岩倉具視に接近、幕末の討幕運動では薩長同盟の成立にも奔走し、新政府軍による江戸開城の時にはその先頭にあったと伝える。
 王政復古後、外国事務局御用掛となり、その後政府の要職を歴任、明治4年には外務省出仕を命じられ、8月3日外務少輔に任じられた。10月8日には従四位に叙せられ、同時に木戸、伊藤、大久保とともに「特命全権副使トシテ欧米各国ヘ差遣」の命を受けた。

3.近代日本の船出

 出航時の岩倉使節団団員の平均年齢はおよそ32歳。最年長の岩倉ですら48歳、副使の木戸が39歳、大久保が42歳、山口が33歳、伊藤は31歳。動もすれば武雄では、山口の33歳という若さに注視しがちだが、むしろ使節団そのものが若き獅子たちの一行であった。
 元来、この計画は前掲フルベッキが明治2年に大隈に手渡した遣外使節派遣の建言書「ブリーフ・スケッチ」がもとになっている。当初は大隈が発議し、彼自身が使節の任に当たる企てであった。しかし、結果的に彼は日本に留まり「留守政府」の大任を負わされた。 岩倉大使のもと、薩摩出身の大久保、長州出身の木戸・伊藤という陣容の中で、山口は、大隈に代わる肥前という藩閥の代表であったという見方もできよう。
 ところで、この岩倉使節団派遣は、
1:江戸幕府が幕末に条約を締結した各国への国書の奉呈
2:条約改正の予備交渉
3:欧米近代国家の制度・文物の調査・研究
を目的とした。
 しかし、最初の訪問地アメリカで条約交渉が長引いたことに端を発して、当初予定の10ケ月半の行程をはるかに超える1年10ケ月の長旅となり、米欧12ケ国の回覧を終えて、使節団が帰国したのは明治6年9月のことであった。加えて、この旅が、若き彼らにとって、若さで補っても補いきれぬほどに困苦に満ちたものであったことは、久米邦武の『特命全権大使米欧回覧実記』からも明らかであり、事実、彼らの強烈なほどの熱意と使命感なしには到底成し遂げえない旅程であったことは想像に余りある。
 岩倉使節団についての評価はその後もまちまちである。現に使節団派遣の目的の一であった条約改正の交渉は実質的には失敗に終わり、以降は極端な欧化政策へと方向を転換し、時代の象徴である鹿鳴館へと交渉の舞台は移っていく。
 しかしながら、新国家創出のモデルを米欧に求め、彼ら先進各国の中に新日本の進むべき道を探ろうとしたという意味で、岩倉使節団の派遣は、まさに近代日本の船出を象徴すべきモニュメント的な事業として位置づけることができよう。そして、山口のみならず、使節団各員にとっても、世界という目で、東洋の果てに浮かぶ日本を見るという視点を培うには十分すぎる旅であった。

4.山口尚芳の見た世界

 岩倉使節団の副使の内、大久保・伊藤・木戸は、条約改正交渉の紛糾や日本の国情の変化から回覧中途に日本へ帰国する。また多くのメンバーもそれぞれの任務を負って分散したため、必ずしも全員が常に行動をともにし、同時に帰国したわけではなかった。
 そのような中、山口は最後まで使節団の中にあった。その意味で山口は使節団の見た世界の全てを体験した。
 早稲田大学中央図書館所蔵「大隈文書 山口尚芳書簡」中には、米欧回覧中に山口が、大隈重信に宛てて書き送った書簡が全部で16通確認される。書簡に認められる日付・内容等から推察すれば、その内訳は、米国サンフランシスコからのもの1通、米国ソルトレーク発1通、米国ワシントン発5通、英国ロンドン発4通、英国バース発1通、英国リバプール発1通、仏国パリ発1通、スウェーデン・ストックホルム発1通、帰国途中香港からのもの1通となる。
 山口の書簡には眼前に広がった新世界への感動があふれ、読むほどに山口の体験した世界が新鮮な感覚で追体験できる。
 その内容は、時候の挨拶と留守政府を預かる大隈への慰労の辞に始まり、使節一行の旅程報告、訪問先の町やそこで受けた歓迎の様子、国情、外交問題、旅先で知り得た日本の国内情勢、廃藩置県、朝鮮・琉球問題への関心など多岐にわたり、あるいは旅先で一行を巻き込んだアメリカ・ナショナル・バンクの倒産事件のように興味深い内容のものも多々見える。
 その書簡中、とりわけ、彼が珍しくも語気を強め感慨を込め認めた箇所が見える。使節一行が米国回覧を終え、リバプールを経てロンドンへ到着した直後の7月18日付書簡の一説である。 
 「兼而聞ク倫敦(ロンドン)ハ宇大之大都市、誠ニ合衆国之諸都合シテモ同実之論ニアラス、…見観之諸物ハ悉ク想像ノ意外ニ出テ、米国迄ハ左マテ驚天ノ場合ニハ至タラス候得共、當國之進歩ニ至テハ落膽(肝をつぶすの意)、有為之氣勢も相屈ス斗ニ有之候、惜ムラクハ十有五年前、此ノ大形ヲ一観セハ方畧無キニシモアラス、嗚乎後レタリ遺憾ナリ…表皮之開化論等ハ断然打捨テ根基ヲ強シ人知之進歩ヲ計ルカ肝要…」
 広大なアメリカ合衆国とその内に点在する諸都市に比べ、日本と同様の島国である英国の首府ロンドンは、全ての都市機能を集約した近代的な巨大都市として山口の目に映じたのかもしれない。
 また、10月14日付の書簡には、英国北部の都市を視察した後の報告として次のような記述も見える。
 「北部廻覧至ル所百工場備ラサル無ク…民間日需之品物ヲ製造スル工場有リテ宇大ニ分布スル…英國ニ冠タル規模ヲ存ス、五六百マイル間四周黒烟ヲ帯日光ヲ不見、名ケテ、スマーク((ママ))コントリー((ママ))(スモッグ・カントリーか)ト言フ、其ノ烟ハ悉ク工場ヨリ起ルノ烟焔ナリ、恰モ常ニ夜陣ノ如シ、其ノ盛大実ニ想像外ニ出テ當國之富強根基此ニ原ス、…嗚乎過去ヲ追想シ十年前此ノ形状ヲ知ラハ國家ニ報スルノ寸功有ラン、遺憾々々」
 工業国として、あるいは貿易国として、想像を遙かに超える近代国家として発展を遂げた英国の姿を目の当りにした山口が、図らずも挙げた驚愕と畏敬の叫びとしてこの一文を読み解くことができる。 使節団一行がヨーロッパに視察の舞台を移してから、わけてもロンドンやパリでの彼らは驚きの連続であったようだ。
 「当府(パリ)ハ英都倫動(ロンドン(ママ))ヨリ狭小ナリト雖、其美麗繁花ハ同実之論ニ有ラスト、宇大之華美ヲ極メ…」
 山口は明治6年正月2日付の書簡にこのように認めた。パリは山口にとっても「花の都」であり、この地で新年を迎えたことの喜びもまた、文中にあふれている。

5.山口尚芳の同行者

 山口には、副使である自身の「従者」としての同行者がいた。山口俊太郎、川村勇、相良猪吉の3名である。
 山口俊太郎は、出航当時数え年十歳の、山口尚芳の長男である。すなわち、山口尚芳は、米欧回覧に自身の従者として自身の長男を同伴した。前掲書簡中にも、時には、幼い俊太郎が自ら通訳をかって出るなど、その語学習熟の速さに驚嘆した様が記述される。この時、留学生として使節団に同行した少年は多くいたが、なかでも俊太郎は、鹿児島の岩下長十郎とともに「一行中の二神童」と呼ばれるほどの怜悧さを持ち合わせていた。俊太郎は、そのままイギリスに滞在、9年後に帰国したが、彼の英語はもはやイギリス人と寸分変わらぬほどであったという。
 川村勇については、出航当時数え年14歳・静岡出身とわかるのみで、山口の従者となった経緯等は不明である。しかし、この米欧回覧を最後にすでに18歳で短い生涯を終えた。
 また、いま1人の相良猪吉は、従来の研究では素性不明の人物であった。しかし、今回の調査で「大隈文書山口尚芳書簡」にはたびたび「相良君」の名が登場することが確認された。おそらくは相良猪吉と同一人と推測される。彼は、眼病を患っていたようで、その病状についても幾度となく、書簡中に触れられている。さらにまた、彼が大隈の甥(大隈の姉妙子の子か)であることも文中から確認された。米欧回覧の帰途、香港からの、明治6年8月27日付、山口の書簡によれば、「相良君」はしばし滞欧後に帰朝の予定であったが、予定を変えて使節団一行とともに帰途にあることが報告されている。しかし、「相良君」のその後については判然としない。

6.山口尚芳と明治政府

 帰国直後の彼らを迎えたのは征韓論政変であった。欧米先進諸国の実情を実地に回覧、検分した彼らは内治優先を主張、明治政府内部は瞬く間に分裂し、特権的地位を追われた全国各地の不平士族の暴動へと拡大した。
 山口の郷里で勃発した明治七年の佐賀の乱で、武雄は、佐賀憂国党から旧領主鍋島茂昌(しげはる)に対する強い要請に抗し切れず、武雄士族団64名が佐賀に出兵した。一方、山口は騒擾鎮撫の命を帯び、長崎から海軍の警備兵を率いて佐賀に入城、佐賀勢の鎮圧に務めた。
 佐賀の乱勃発当初、武雄が領内の動揺を抑止し、出兵を拒否、態度を留保し続けた背景には、鍋島茂昌に対する山口の諌言があり、また、乱後、武雄が赦免された背景には、山口の奔走があった。
 明治8年、山口は元老院議官となった。14年には初代の会計検査院長に就任、同時に元老院・参事院の議官も務めた。また、明治22年には貴族院議員に勅撰された。
 現在、会計検査院院長応接室には、山口の肖像画が掲げられている。そこから彼は、著しく変化し、今なお変貌し続ける現代社会を、静かに見つめている。



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