御船山

河原蟠平(かわはらばんぺい) (1793〜1843)


武雄の邑校身教館で使用された書籍類


 武雄の邑校身教館で使用された書籍類
  (いずれも武雄鍋島家資料 武雄市蔵)

 1793(寛政5)年12月17日、甘久村(現、武雄市朝日町甘久)に生まれた。河原市蔵(たしか)の二男で、市次郎(たすく)とも呼ばれた。
 河原氏の祖は、平安時代以降、北九州西部一帯を本拠とした松浦党の支族伊万里氏の裔で、戦国期、武雄の領主後藤貴明の配下に降ったという。蟠平は、武雄の十代領主後藤家信が佐賀から随従した「塚崎(武雄)五十人士」の一人栗原家の血統が絶えたため養子となり、一時栗原姓を名乗った。三代前の栗原心斉は、武雄の正史『藤山考略』を編纂した人物で、学問の家系であったため、蟠平は儒者として邑校身教館の教授になり、同時に蔵方役人にも任じられた。その後、山内町の船ノ原村にも移住して子弟の教育にあたったという。
 正義感の強い性格であったと思われ、1822(文政5)年には領主茂順側室の横暴に憤り、清水龍門や従兄弟の(たかし)、兄の(なおし)ら17名で佐賀の武雄屋敷に白装束で押しかけ弾劾に及んだため、捕縛され、「無調法これあり」として「里追放」となり、もとの河原姓に戻った。ほどなくして罪を免ぜられ、武雄家中に復帰したものと思われるが、再び、領内の困窮する農民のため、独断で救荒米を確保していたことが発覚する事件を起こした。
 1843(天保14)年11月21日、河原蟠平は、佐賀本藩に先んじ武雄に西洋砲術をもたらした平山醇左衛門とともに山内町白木原で打ち首に処せられた。平山の死と同様、彼の死も謎に包まれている。一説に、領主茂義の狩猟好きが高じて生ずる農作物の被害を直訴したためともいう。いずれにせよ、蟠平の死は、彼の生来の強い正義感ゆえの結末であり、封建社会に生きた気骨の人として、今日に語り継がれている。

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