御船山

宮原忠直(みやはらただなお)(1870〜1948)


武雄温泉楼門


 武雄温泉楼門 (温泉新館の建物とともに平成17年、国重要文化財に指定)
 小城出身で「書聖」と呼ばれた中林梧竹の「蓬莱泉」の扁額を掲げた楼門は、現在も観光武雄のシンボルとなっている。

 宮原林平忠頼(明治初年頃の武雄鍋島家の家臣団名簿には切米六石六斗取とある)の子。1887(明治20)年、全国の俊才の集う当時一流の教育の場であった大分県日田の咸宜園に入学したという。1891年卒業、1893年に九州鉄道会社に入社、鉄道マンとして、門司、博多、佐賀、折尾の各駅で勤務した。しかし、2年後の1895年4月に依願退社、武雄までの鉄道が開業した翌日の5月6日には宮原運送本店を創始し、実業家としての第一歩を踏み出した。この後、1907(明治40)年には日本逓送株式会社を設立、「九州の虎」と呼ばれ、九州の運送業界のトップを走るまでになった。
 その一方で、1905(明治38)年、武雄温泉初代組長の祖父、3代・5代組長の父のあとを受け、武雄温泉組(のち武雄温泉株式会社)9代目組長となった。また、この期に地質学の専門家に依頼して3年がかりで新泉脈を発見、この泉脈を使った新館浴場の建築を計画した。県会議員時代の1914(大正3)年から武雄温泉を中心に据えた「竜宮城」構想に基づくテーマパーク実現のため、東京駅の設計者として著名であった唐津出身の辰野金吾博士の設計事務所に発注し建設した「温泉楼門」と「新館」は翌年完成、武雄への観光客誘致に多大な効果を挙げることとなった。
 設計図(青写真)には、実際には一つしか建設されなかった楼門が回廊で繋がれて三つ描かれ、東京駅同様、鳳凰が翼を広げたような大建造物の構想があったことがわかる。ここに、背景の桜山の奇岩を取り込んだ日本庭園のほか、当時としては珍しいサウナ風呂やビリヤード場、演劇場、古陶磁展示場などを計画、まさに九州の一大リゾートを構想した。宮原忠直は武雄が生んだ大事業家であった。

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