御船山

谷口藍田(たにぐちらんでん)(1822〜1902)


しん山書院跡


 しん(しんざん)書院跡  (山内町宮野小路)
 1653(承応2)年に館山寺が建立された地。しん山書院の立地については、蜂ノ巣の定林寺(山内町宮野)とする説もある。現在地の定林寺は1908(明治41)年に移転。



立野元定墓碑


 立野元定墓碑  (広福護国禅寺内)
 谷口藍田の手になる銘が刻まれている。

 谷口藍田は、1822(文政5)年有田生まれ。藍田の母縫は、武雄の儒学者清水龍門の姉であり、藍田も12歳から18歳までは龍門に教えを受けたという。1840(天保10)年、広瀬淡窓の咸宜園(現大分県日田市)に留学、佐賀では草場佩川等に学んだ。さらに東遊して佐藤一斎、佐久間象山、大槻磐渓らと交わり、内外の事情に通暁した。
 1853(嘉永6)年、有田において塾を開く。1857(安政4)年には、1851年に没した龍門の弟子を塾生として、小路(くうじ)の館山寺跡にしん(しんざん)書院を開き、書生が遠方からも集って堂舎にあふれる盛況であったが、数年後、火事にあって閉塾した。(1883(明治16)年、文部省調査の「日本教育史資料」には、しん(しんざん)書院の開業は1849年、閉業は1867年と記される)
 1869(明治2)年、鹿島藩主鍋島直彬(なべしまなおよし)の招きで藩校弘文館の儒師兼藩の権大参事に任ぜられた。藩校廃止後は、子の復四郎と共に鹿島義塾で生徒の薫陶に当たり、かたわら藍田私塾を開いた。さらに沖縄・熊本・大阪など各地で経書(儒学の経典)の講義を行い、1893年、熊本の第六師団長北白川宮の招きに応じた。その年、宮が大阪師団長に転任されたので、これに従って大阪へ行き、さらに東京の宮家邸に移って講義を行い、1896年からは東京に藍田塾を開いた。常に仁義の大道を説き、鍋島直彬からは天下の真儒として尊称された。1902(明治35年)没。
 武雄の邑校である身教館が1869年に焼失した後、龍門の娘婿立野元定(その室道子(通称モン)と藍田は従兄弟)は静好堂と号した私塾を開いたが、藍田もここに逗留したことがあり、下の詩を作っている。

 静好堂贈立野麟郷、 谷口藍田
 朝嵐滴如露、六月絶炎塵、老樹多奇果、青山殆迫人、
 有妻問詩礼、無事妨精神、静好調琴瑟、淹留度幾旬、

 また1886年、立野元定が没したおり、彼の門弟が集まって墓碑を建立したが、銘は藍田の手になるものである。

 索引へ戻る 

肥前全図


 歴史資料館TOPへ 

Copyright (C) Takeo City Library&Historical Museum