御船山

岸天岳(きしてんがく)(1814〜1877)

 通称は英作、俊平、名は譲、号として天岳、取長堂、吟龍軒、無声詩屋などを名乗った。
 『西肥遺芳(さいひいほう)』(1917年刊)等によれば、1814(文化11)年に小城に生まれ、のち佐賀藩士小林氏の養子となった。天岳の雅号は、佐賀を代表する名山「天山」に由来するという。
 幼い頃から画才に優れ、12歳の時には九代藩主鍋島斉直(なりなお)に従い上京、9世紀以来続く、絵師の名門巨勢家の門に入った。1834(天保5)年には、同じ京都で、障壁画や虎の絵で名高い岸駒(がんく)に学び、岸の姓を許された。
 武雄の第29代領主鍋島茂昌(しげはる)(1832〜1910)は、父茂義が絵画にも堪能であったことから、その教えを受け絵画にも深い興味を示した。『武雄史』(石井良一著)に「(茂昌は)父浄天(茂義の戒名)に学び、又、小城より岸譲、(あざな)、天岳を聘用し習熟せられた」とあるように、茂昌は天岳を重用して武雄に招き、彼を倣ってか、自らも武雄の象徴である御船山に由来する「船岳」の雅号を称した。天岳の技量は茂昌のみならず、武雄の絵師広渡三舟らにも強い影響を与えたと想像される。
 武雄には、天岳の手による「豊臣秀吉肖像」や「黒髪大明神」の作品が残されている。天岳は、本来、花鳥画を得意としたが、山水画や人物画など幅広い作例が残され、余技として、俗曲や諸芸にも通じたという。
 1873(明治6)年、佐賀出身の佐野常民が副総裁を務めたウィーン万国博覧会には、天岳の「水中双鯉図」と「鯉水草図」が出品され、賞状と画料を授与された。ウィーン万博への佐賀県関係の画家の出品は天岳一人で、まさに幕末・明治期の佐賀を代表する画家の一人といえる。この前後、現在の佐賀市与賀町の諫早家下屋敷を拝領、この地で余生を過ごしたと思われる。

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