御船山

有田源一郎(ありたげんいちろう) (1853〜1914)

佐野常昭像


草場佩川作 佐野常昭像
  (有田家コレクション 武雄市蔵)
 草場佩川は有田源一郎の師にあたる。「常昭様御寿像」と題される作品。絵の上部に記された(さん)によれば、1825(文政8)年、医者の家系で、のちに佐野常民の養父となる佐野栄寿の依頼により、同年に逝去したその父常昭(孺仙(じゅせん))を描いたもの。『草場佩川日記』にも同様の記述がある。

 有田氏は、平安時代末から松浦地方の沿岸一帯に蟠踞(ばんきょ)した武士団である松浦党の一族で、伊万里城主の末孫(ばっそん)にあたる。戦国期、伊万里城主松浦治が龍造寺隆信から攻められた際、治の夫人が武雄領主の後藤貴明の娘であったことから武雄の家臣となったという。もとは河原姓を名乗ったが、19世紀中頃から有田姓に改めた。
 源一郎は、江戸時代末期、現在の武雄市朝日町甘久に生まれた。父は武雄鍋島家の家臣で、1870(明治3)年『惣着到』(武雄鍋島家資料)には、武雄鍋島家家老の後藤兵部組に「物成(ものなり)七石 有田龍左衛門」の(せがれ)「有田源一郎」の名前が記載されている。
 初め、身教館に入り武雄の家臣で儒学者でもあった立野元定に学び、のち、多久の儒学者草場佩川(はいせん)の門下となった。明治の初め頃は、高橋小学校で教鞭を執ったが、その後、実業家に転身、1882(明治15)年、同志四名と各米二百俵を出し合い甘久共同舎を設立、金融業を開始したという。1897年には会社を武雄に移し、武雄銀行とし、頭取となった(1955年発足の佐賀銀行につながる)。また、1886年からは県会議員として5期、さらに1908(明治41)年からは衆議院議員に当選、当時の政党・政友会の武雄における勢力基盤を築くことになった。1914(大正3)年、再び県会議員となったが、同年の暮、病気をおして県会に出席したが、突然人事不省に陥り、数日後、永眠することとなった。武雄を中心に財界・政界の重鎮として名を馳せた人物であった。
 2005(平成17)年、源一郎の時代以来、有田家が蒐集し、保管してきた約500点もの陶磁器や絵画・書など貴重な資料・作品が、孫にあたる有田峰次郎氏により武雄市に寄贈され、有田家コレクションとして武雄市図書館・歴史資料館に収蔵されている。

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