御船山

平吉誠舒(ひらよしゆきのぶ)(1834〜1890)


銃弾・薬莢・雷管・薬包


 銃弾・薬莢・雷管・薬包(武雄鍋島家資料 武雄市)
 薬莢は、鉛製の銃弾の後ろに発射薬(火薬)を付けるためのもの。管打ち銃の場合、起爆剤(雷汞)を詰めた雷管は銃の機関部に設置した。

 1834(天保3)年、武雄本小路に生まれた。元の名は小川源吾、のち平吉廉之助、平吉誠舒を名乗る。(戊辰戦争の従軍時のこと) 母は、中村凉庵の妹。平吉は先祖の(龍造寺当時)名を復したと思われる。(『武雄家中系図』)
 幼少時、武雄の邑校身教館に入り、後の領主鍋島茂昌の学友として側に仕えた。その後、佐賀藩校弘道館に学び、1856(安政3)年には、時の領主鍋島茂義の命を受け肥後に遊学、さらに中国地方から大阪へと巡り、軍事視察を行なったと伝える。
 帰郷後は身教館の教授となったが、1869(明治2)年、身教館が火災で消失して以後は家塾を開いて教育を行なった。また、彼は茂義の時代、武雄が西洋の軍事技術を導入、砲術を中心に研究と調練を繰り返す中、蘭書をもとに理化学研究に専心し、輸入に頼っていた雷管(発火具)の製造にも成功したという。
 一方、戊辰戦争の時には、武雄軍団は秋田方面に展開、平吉は第二先鋒大隊の小隊長として幕府軍の庄内藩と秋田市南方の平沢大師堂など各地で秋田隊とともに転戦して武功をあげ、帰郷後、戦場でしたためたメモをもとに詳密な『従軍日誌』を残した。『従軍日誌』は、戊辰戦争の貴重な記録であるともに、流麗な漢文で記され、所々に自作の詩を配するなどして、平吉自身の教養の確かさを立証するものとなっている。
 明治になり、平吉は武雄での殖産興業の急務を悟り、1872(明治5)年頃から、養蚕の研究を行ない、領内の山野を開拓、大桑園を開き、以後長く武雄で養蚕業が栄える端緒をつくった。1884(明治17)年、県立武雄中学校の校長となり、その後、武雄学館を経て1888年に武雄高等小学校となって以後も引き続きその職にあり、1890年、在職のまま逝去した。

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