御船山

岩谷孫蔵(いわやまごぞう) (1867〜1918)

 民法学者、岩谷龍一の二男。慶応3(1867)年8月2日生まれ。ドイツ民法の造詣が深く、中国の法律学啓蒙に努め、中華民国の大学生養成に力を注いだ人物である。
 明治17(1884)年東京外国語学校を卒業し、翌年ドイツに留学。19年ヱーナ大学、20年ハルン大学に入り法律学を修め、23年ドクトル・ユリス(法学博士)の学位を得て、4カ月間ハルン区裁判所で見習勤務。
 日本からの留学生が珍しかった時代であったことから、数回にわたりビスマルク宰相と謁見。この縁から、三好退蔵検事総長のドイツ遊学のおり、三好氏と隠棲したビスマルクの面会の仲立ちをしたエピソードが伝えられている。
 24年1月に日本へ戻り、明治法律学校、東京専門学校、和佛法律学校及び東京高等商業学校等の講師となり、25年第三高等学校教授、26年同法学部主事となり、27同志社講師を兼ね、32年9月京都帝国大学教授に転じて民法第二講座を担任。34年6月法学博士の学位を授けられた。35年10月清国北京大学堂仕学館正教習として招聘され、36年教習進士館正教習、40年京師法政学堂正教習に転じた。39年高等官二等に昇叙、45年7月中華民国法典編纂会調査員に挙げられ(後に中華民国法律編査会顧問と改称)、大正2(1913)年大総統府法律諮議となり、北京大学其他に法律学校で講義を行なったが、6年に病で帰国。京都帝国大学法科大学教授を辞した。7年11月13日死去。年52、特旨を以て従三位に昇叙。

※註1
 『武雄史』(石井良一著)には長男と記されるが、ここでは『大日本博士録』(1〜5巻/明治21〜大正9年刊)の記述に従った。
※註2
 ヱーナ大学、ハルン大学については、昭和4年に作成された調書の記載に従ったが、不詳。別資料ではベルリン大学に留学したとあり、またイエナ大学、ハレ大学に学んで学位を得たとする資料もある。

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