平成20年度 武雄市図書館・歴史資料館ミニ企画展

薩州鹿児島見取絵図

 「薩州鹿児島見取絵図」は、安政4年(1857)6月、佐賀藩士千住大之助(脇役)、佐野常民(精煉方主任)、中村奇輔(精煉方)が、鍋島直正から島津斉彬に送られた電信機を携えて鹿児島を訪れた際、集成館などの施設を見学し、その様子を絵図にしたものです。佐賀本藩と武雄領に2種が伝来しています。
 薩摩藩第28代藩主島津斉彬が推進した集成館事業は、造船・製鉄(鋳砲)・紡績・ガラス・陶磁器・印刷・出版・教育・電信・製薬・食品・写真など多岐にわたっていました。事業の中核となったのは鹿児島城下郊外、磯の地に築かれた工場群「集成館」で、ここでは最盛期1,200人もが働いていたと言います。  武雄鍋島家に伝来した「薩州鹿児島見取絵図」は12枚の絵図と2冊の風説書からなり、集成館等の当時の様子を(つぶさ)に見て取ることができる、大変貴重な資料です。絵図の一部を下に紹介します。


場所:蘭学館ミニ展示コーナー(観覧無料)
期日:平成20年4月18日(金)〜平成20年5月14日(水)


磯別邸の図
   
 
 
集成館

「集成館」部分拡大

『磯別邸の図』

 集成館事業の中核施設「集成館」から島津氏の別邸仙巌園・華倉(けくら)御仮屋までの様子を描いたものです。「集成館」は、現在の尚古集成館一帯から仙巌園入口付近にあった工場群で、その跡地は国の史跡に指定されています。
 仙巌園および華倉御仮屋跡も国の名勝となっています。
 斉彬の集成館事業の中核となった工場群「集成館」には、大砲を造るための反射炉・溶鉱炉・鑽開台(さんかいだい)や薩摩切子を造っていたガラスエ場、蒸気機関の研究所など数多くの工場がありました。 

 
 

   
 

『中村製薬館』

 中村製薬館は、弘化3年(1846)、斉彬の父斉興(なりおき)によって創設された理化学研究所です。火薬の原料の硫黄・硝石や硝酸・硫酸などの酸類、アルコールなどを生産していました。また、ガラスエ場もあり、薬ビンのほか、船舶用の板ガラス・半球体ガラス、さらに薩摩切子もつくられていました。中村製薬館があった場所は、島津氏の居城鶴丸城から南へ3キロほどのところで(現鹿児島市鴨池1丁目)、鴨池福祉館前庭に製薬館跡の石碑が建っています。

 
   
中村製薬館

滝之上火薬製造所
   
 

滝之上火薬製造所(たきのかみかやくせいぞうじょ)

 滝之上火薬製造所は、文政年間(1818-30)、稲荷川流域の滝之上(現鹿児島市稲荷町滝之神)に創設されたと伝えられます。嘉永2年(1849)ころには、製法を洋式に改める大改革がおこなわれました。ここでは、稲荷川の水を利用して水車を回し、火薬やその原料を粉砕し、加工していました。幕末から明治初期は、わが国最大の火薬製造所で、明治10年(1877)西南戦争がはじまると西郷軍がここを占領して弾薬を製造しはじめました。西郷軍の主力が熊本方面で戦っているすきに、政府が軍艦・陸軍部隊を鹿児島に派遣し、砲撃を加えて火薬製造所を破壊しました。

 
   

   
 

『瀬戸村造船所』

 桜島の瀬戸村にあった造船所です。画面上部が桜島側、下部が大隅半島で、大正3年(1914)の桜島大爆発でこの造船所一帯は溶岩に埋まり、桜島と大隅半島が陸続きになりました。斉彬は、嘉永6年(1853)ここで日本初の本格的洋式軍艦(パーク型帆船)「昇平丸(しょうへいまる)」の建造に着手し、安政2年(1855)には「大元丸(だいげんまる)」「承天丸(しょうてんまる)」も完成させました。図中の入り江に浮かんでいる船は「承天丸」(図注は「勝天丸」)で、伊予海上で嵐に遭遇し、帆柱等を損傷したため、修理を施しているところです。なお、瀬戸村の他、対岸の牛根(水市牛根)と磯(現鹿児島市吉野町磯)にも洋式船の造船所があり、磯海水浴場近くに「照国(斉彬)公製艦記念碑」が立っています。

 
   
瀬戸村造船所


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