平成21年度 武雄市図書館・歴史資料館特別企画展 応仁の乱に端を発し、全国に群雄が割拠した戦国時代。中世から武雄に居を構えた後藤家も、こうした騒乱と無縁ではいられませんでした。 |
場所:企画展示室・メディアホール(観覧無料) |
展示物の一部を下に紹介します。展示品一覧は こちら
戦国の九州 戦国時代とは、一般には応仁の乱〔応仁元(1467)年〜文明9(1477)年〕から室町幕府滅亡〔天正元(1573)年、15代足利義昭が織田信長によって京都から追放)〕頃までの群雄割拠の動乱期を言います。しかし九州では、その後も龍造寺氏・大友氏・島津氏の間で覇権争いが絶えず、豊臣秀吉が天正15(1587)年に島津義久を屈服させるまで続きました。
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五州二島の太守 龍造寺隆信 豊後の大友氏、鹿児島の島津氏と並んで、戦国の肥前を代表する武将は肥前の龍造寺氏です。
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武雄の勇将 後藤貴明 武雄の領主として長く権威を保った後藤氏は、藤原鎌足の後裔にあたる章明が墓崎荘の地頭となり、12世紀の前半、その子資茂の時、墓崎に下向し富岡村湯里(ゆのかり)に居住したことに始まるとされます。その後、惣地頭として入部した橘氏(のち渋江を名乗る)が、南北朝時代(14世紀後半)以降、一族内部の紛争で衰退するなか、次第に杵島郡内の有力豪族に成長、後藤家19代貴明の時に勢力は最大となりました。
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文禄・慶長の役と武雄 豊臣秀吉は、天正19(1591)年10月、肥前名護屋で築城をはじめ、ここを唐入(征明)の本営としました。当時の武雄領主後藤家信も数百の人夫と多くの資材を出し、また鍋島直茂の配下として、手勢700余名を率いて渡海しました。このとき連れ帰った朝鮮陶工による作陶が、武雄の陶芸の始まりです。慶長の役では、病気で帰朝した家信に代わり、嫡子茂綱も従軍しました。
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近世佐賀藩の成立と武雄 天正5(1581)年5月、龍造寺隆信の三男家信は後藤貴明の養子となり、15歳で武雄に入部。翌年には、実質的に後藤家20代を継いだと推測されます。肥前領内の実権が鍋島家に移る過程で、その配下に入り、21代茂綱からは鍋島の姓を名乗るようになります。江戸時代の武雄鍋島家は、龍造寺家直系として多久・須古鍋島・諫早とともに「親類同格」に遇され、領内での大幅な自治権を有する「大配分」を受けました。
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