平成21年度 武雄市図書館・歴史資料館特別企画展
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 応仁の乱に端を発し、全国に群雄が割拠した戦国時代。中世から武雄に居を構えた後藤家も、こうした騒乱と無縁ではいられませんでした。
 19代後藤貴明の時には大村氏や有馬氏との抗争を経て領土を最大にしましたが、後には一族の内紛などから龍造寺の傘下に入り、龍造寺隆信の三男家信を養子に迎えることとなりました。その後、豊臣秀吉が九州を平定し、佐賀領国の実権が鍋島家に移る過程で後藤家もその配下となり、21代茂綱からは鍋島姓を名乗るようになります。
 今回の展示では、激動の戦国時代の九州と、その中での武雄の動きを紹介します。

場所:企画展示室・メディアホール(観覧無料)
期日:平成22年2月13日(土)〜3月21日(日)
担当学芸員のギャリートーク:いずれも13:30〜
2月13日(土)・21日(日)・3月6日(土)・21日(日)


展示物の一部を下に紹介します。展示品一覧は こちら 


  戦国の九州

 戦国時代とは、一般には応仁の乱〔応仁元(1467)年〜文明9(1477)年〕から室町幕府滅亡〔天正元(1573)年、15代足利義昭が織田信長によって京都から追放)〕頃までの群雄割拠の動乱期を言います。しかし九州では、その後も龍造寺氏・大友氏・島津氏の間で覇権争いが絶えず、豊臣秀吉が天正15(1587)年に島津義久を屈服させるまで続きました。


大友宗麟義鎮書状
   
 

『大友宗麟義鎮書状』

桃山時代
武雄鍋島家資料 武雄市蔵

 後藤貴明は、永禄6(1563)年頃から幾度か大村領を攻撃しており、永禄7年8月には、平戸の松浦氏と連合し、海上から大村攻めを行なった。8月2日に始まる「皆瀬山の戦い」と呼ばれる戦闘である。
 この大友宗麟の書状は戦闘の報を受け、後藤貴明に宛てて出されたものと考えられ、貴明の勝利に祝辞を述べ、さらに今後も油断なく堅固な構えを整えるように記している。しかし、実際には武雄と平戸の連合軍は、この戦闘では敗北したと伝えられる。武雄市重要文化財。

 
   


  五州二島の太守 龍造寺隆信

 豊後の大友氏、鹿児島の島津氏と並んで、戦国の肥前を代表する武将は肥前の龍造寺氏です。
 大友・島津の二氏が鎌倉時代以降、それぞれの地方の守護として成長した名族であるのに対し、龍造寺氏は出自に不明な点も多く、一般には在地の有力豪族が鎌倉幕府の地頭を経て大勢力に成長したものと考えられています。なかでも龍造寺隆信は、歴史上、最大領土を形成した肥前の武将として、その名を響かせました。


   
 

『北肥戦誌』

全三十五巻 七冊 江戸時代
武雄鍋島家資料 武雄市蔵

 『九州治乱記』・『治乱記』・『覚書』とも記される。三十巻本と三十五巻本とがある。三十五巻本は、鎌倉期の蒙古襲来に始まり、豊臣秀吉の九州平定・天下統一・朝鮮の陣の始まりまでを記載した九州北部の戦乱誌である。類似的なものには、『歴代鎮西志』(二十五巻本、神代之略記・天孫降臨〜島原の乱・正保年間を記載)、『肥陽軍記』(四巻本、肥前龍造寺家傳之事〜島原合戦・信生公家業御相続之事)などが残る。

 
   
北肥戦誌 全三十五巻 七冊


  武雄の勇将 後藤貴明

 武雄の領主として長く権威を保った後藤氏は、藤原鎌足の後裔にあたる章明が墓崎荘の地頭となり、12世紀の前半、その子資茂の時、墓崎に下向し富岡村湯里(ゆのかり)に居住したことに始まるとされます。その後、惣地頭として入部した橘氏(のち渋江を名乗る)が、南北朝時代(14世紀後半)以降、一族内部の紛争で衰退するなか、次第に杵島郡内の有力豪族に成長、後藤家19代貴明の時に勢力は最大となりました。


後藤伯耆守貴明公御像
   
 

『後藤伯耆守貴明公御像』

武雄鍋島家資料 武雄市蔵

 白磁の貴明像。武雄鍋島家の御廟から近年発見された。箱書きに「後藤伯耆守貴明公御像 香雲作」と記される。型物で、比較的近年の作品と思われるが、作者香雲については不詳。制作年も不詳である。貴明寺に安置されている貴明公像の修復以前の姿を写したと推測されるものの、どのような意図で作られたのかも不明である。

 
   
   
 

『修復前の木造後藤貴明公像(写真)』

武雄市蔵

 昭和40年代(1965〜1974)、貴明像の傷みが著しく、補修がなされ現在の姿となったが、それ以前の貴明像の姿を伝える貴重な写真。
 現在の『木造後藤貴明公像』は、 こちら 

 
   
修復前の貴明公像(写真)


  文禄・慶長の役と武雄

 豊臣秀吉は、天正19(1591)年10月、肥前名護屋で築城をはじめ、ここを唐入(征明)の本営としました。当時の武雄領主後藤家信も数百の人夫と多くの資材を出し、また鍋島直茂の配下として、手勢700余名を率いて渡海しました。このとき連れ帰った朝鮮陶工による作陶が、武雄の陶芸の始まりです。慶長の役では、病気で帰朝した家信に代わり、嫡子茂綱も従軍しました。


軍船住吉丸長押の一部
   
 

『軍船住吉丸長押の一部』

桃山時代
武雄鍋島家資料 武雄市蔵

 箱書きに「伊万里の御船屋に保存中の処、天保年中船材腐柯解体の節取寄せ、文禄・慶長の二役に家信公座乗の軍船住吉丸の長押の一部保存」とある。長押が船のどの部分を指すかは不明だが、大正から昭和始め頃に古老の話などを収集し、編纂されたと考えられる『近世武雄史談』の船方の項にも「御船屋、軍用船等モ管理シ、浄泰公(家信)朝鮮御陣ノ御船ノ舳先等モ維新頃マデ保管シタリト云フ」と記されており、舳先の船櫓の残欠ではないかと考えられる。

 
   


  近世佐賀藩の成立と武雄

 天正5(1581)年5月、龍造寺隆信の三男家信は後藤貴明の養子となり、15歳で武雄に入部。翌年には、実質的に後藤家20代を継いだと推測されます。肥前領内の実権が鍋島家に移る過程で、その配下に入り、21代茂綱からは鍋島の姓を名乗るようになります。江戸時代の武雄鍋島家は、龍造寺家直系として多久・須古鍋島・諫早とともに「親類同格」に遇され、領内での大幅な自治権を有する「大配分」を受けました。


   
 

『武雄城下屋敷図』

江戸時代
武雄鍋島家資料 武雄市蔵

 御船山を正面に据え、武雄(塚崎)の古城跡と、その下に黄色で扇形に広がる武家地を描いている。絵図に記載される家臣の名前から十八世紀後期頃の成立と思われる。武雄領主は、戦国の一時期に山内町の住吉城に移った以外は、代々武雄城を居城とした。武雄城(塚崎城)は現在の武雄高校の位置にあり、背後の御船山を天然の要害とする山城であったが、元和元(一六一五)年の一国一城令により取り壊され、領主の館と諸役所を残すのみとなった。絵図のほぼ中央部には、本丸・二ノ丸・三ノ丸など古城の遺構が描かれ、その下には掘に囲まれた領主の館、向かって左、東の方角には武雄神社が見える。

 
   
武雄城下屋敷図


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