広渡家系図
広渡備前
九州探題渋川則貞の家来。則貞に随従し、武雄領内大草野に来住。
広渡弥三左衛門
備前の子。絵の器量あり。武雄20代領主後藤家信に起用され、知行10石を賜る。
広渡万右衛門
弥三左衛門の子。武雄領主鍋島茂和に仕え知行10石を賜る。寛永14(1637)年、天草・島原の陣に絵図方として従軍する。
広渡雪山
万右衛門の弟。万右衛門の子三弥(のちの心海)が幼稚のため、万右衛門の家督を継ぐ。兄万右衛門とともに天草・島原の陣に従軍。知行10石を賜る。三弥の成長により、家督を譲り、承応3(1654)年、佐賀本藩に召しだされ御抱え絵師となる。
広渡心海
万右衛門の嫡子。知行10石を賜る。絵の稽古として京都に滞在中、度々禁裏(宮中)御用を命ぜられ、寛文4(1664)年閏5月12日、「法橋」の官位勅許を蒙る。男子無きにより、弟子次郎太夫を養子として家督を継がしむ。
肥後細川藩の絵師末次一湖は、心海が長崎滞在中の門弟。姓を広渡と改め、清人陣清斉に画法を学び、心海の跡目を継ぐ。その子、湖春。さらに湖秀、湖月と続き、代々、長崎で唐絵目利となる。
広渡武則
小城家中菊地慶宇の次男。前名は次郎太夫。心海の婿養子となる。知行10石を賜る。
広渡守行
武則の子。知行10石を賜る。守行の実子兵吉、幼稚のため、家伝の絵師相続出来がたく、久池井杢之進の次男、文字麿を養子とし願出、許可を得たものの、のち文字麿の実兄が病死、久池井家に継嗣無きにより文字麿は戻された。結局、実子兵吉、広渡家を相続する。
広渡弥三左衛門
守行の子。前名兵吉。知行10石を賜る。寛政3(1791)年、虚無僧となり、御暇
下さる。
広渡権八
広渡武則の次男。甥の弥三左衛門が虚無僧となったため、武雄領主鍋島茂昭、扶持を与え、広渡家を相続させる。その後、病死により、廃家となる。
広渡心海
もとは加々良良寛。武雄家重臣加々良判兵衛広胖の次男。文化3(1806)年、西田小路に生まれる。幼より絵の器量あり。文政11(1828)年10月5日、武雄領主鍋島茂順より起用され、権八の跡を継ぎ、広渡心海の名を継承す。江戸で狩野良信に学ぶ。
広渡三舟
良寛の長男。天保12(1841)年生まれ。絵を父に学び、狩野派の流儀を極めるという。長崎奉行の求めにより、13歳で長崎に赴き、武雄屋敷に一年余、滞在。命により、全国に分配される各種の植物を写生、見る者を驚嘆させたという。帰邑後、武雄領主に仕え、安政5(1858)年から領主の命により諸国を遊学、絵の技量をたかめたという。山水花鳥を得意とした。
広渡一舟
三舟の子。明治14年(1881)生まれ。絵を父に学び、狩野派の流儀を極める。技量高く、その作品は、高家・諸名家の御用品となり、武雄鍋島家より一舟の名を拝命する。
※石井良一『武雄史』により作成