平成22年度 武雄市図書館・歴史資料館企画展

武雄の絵師 広渡心海

 広渡家は武雄の領主後藤家信の頃から御用絵師として起用され、代々武雄の絵師として活躍しました。近世の広渡家2代目広渡万右衛門の弟雪山が一時期広渡家を相続しましたが、万右衛門の子心海が成人するとすぐに家督を譲り、武雄の絵図方を継承させ、雪山自身は佐賀本藩の御抱絵師になりました。心海は、絵の勉強のために京都に滞在中、朝廷の御用を命じられ、寛文4(1664)年、当時の絵師の最高の称号であった『法橋』の勅許を得ました。
 その後、後継ぎが絶えたことから広渡家は一時廃家となりましたが、武雄領主27代鍋島茂順の時、幼少より絵に優れた家臣の加々良良寛を絵図方に採用し広渡家を再興させました。こうして良寛は広渡心海の名を襲名、狩野良信について画風を学び、28代鍋島茂義にもその技法を伝授しました。
 今回、新発見の「西王母・東方朔図屏風」(武雄市蔵)を公開し、あわせて武雄の絵師である2人の心海の作品を紹介いたします。


場所:企画展示室(観覧無料)
期日:平成22年4月10日(土)〜5月23日(日)
 広渡家系図 


広渡法橋心海(?〜1703)

 武雄領主鍋島茂和に仕えた広渡万右衛門の子に生まれ、武雄鍋島家に仕える。江戸で狩野益信の門人となり、絵の稽古として京都に滞在中、度々禁裏(宮中)御用を命ぜられ、寛文4(1664)年閏5月12日、絵の名手に対して与えられる「法橋」の官位勅許を得る。延宝2(1674)年に始まる京都での禁裏新院造営では、襖絵制作に参画、内侍所東之間に花鳥図を描いた。
 日本各地に現存する心海の作品には署名に「肥之前州」や「肥陽」と併記された作品が見られることは、心海が肥前という枠を超えて広く活躍していたことを示唆するものと言える。また、長崎の広渡一湖に画法を伝えたことでも知られている。心海は元禄16年、70歳余で死去したと考えられ、その墓は、佐賀市与賀町の浄土宗光照寺にある。

西王母図

東方朔図
   
 
 

西王母・東方朔図屏風(部分)

法橋心海筆

 西王母(せいおうぼ、さいおうぼ)は、中国で古くから信仰された女仙、女神。すべての女仙たちを統率する。中国で西の果てにいるとされ、天帝の娘ともされる。またその仙女のいた地名を示す。
 東方朔(とうほう さく、紀元前154年 - 紀元前92年)は、前漢・武帝時代の政治家。字は曼倩。平原郡厭次県(現在の山東省陵県神頭鎮、もしくは山東省恵民県)の人。武帝に「今年22歳になり、勇猛果敢、恐れを知らず、知略に富んでいるので、大臣に向いていると思う」と自ら推薦状を送った。これを武帝が気に入り、常侍郎や太中大夫といった要職につかせた。後の歴史書などには、彼の知略知己に富む様子がしだいに神格化され始め、ついには下界に住む仙人のように描かれることとなった。
 能の『東方朔』では、七夕の星祭りをしている漢の武帝の下に東方朔が西王母とともに現れ、聖寿の長久を祝福する。こうしたことから、対にして描かれることも稀では無い画題となっている。

 
 

広渡雪山(?〜1674)

 広渡万右衛門の弟。万右衛門の子三弥(のちの心海)が幼少のため、万右衛門の家督を継いだ。寛永14(1637)年の天草・島原の陣には、絵図方として従軍した兄万右衛門と行動を共にした。武雄領主から知行10石を受けるが、三弥の成長により家督を譲った。承応3(1654)年には、鍋島家御抱え絵師であった狩野宗俊が亡くなったことを受け、同年、佐賀本藩に15石5斗で召しだされ鍋島家絵師となり、延宝2(1674)年に没するまでの20年間を過ごしたと思われる。
 洗練された描法による穏やかな水墨画の技法からは、雪舟の画風を継承しつつ安土桃山時代に生まれた雲谷派の影響を見ることができるといわれる。彼の墓は、佐賀市与賀町の浄土宗光照寺にある。

霊昭女
   
 

『霊昭女』

広渡雪山筆

 「霊昭女」とは、禅に帰依し、竹籠を売って両親に孝養を尽くしたと言われる中国唐代の人物である。古くより禅宗の画題として用いられ、図像としては少女が竹籠を下げた礼拝像風に描かれることが多い。

 
   


   
 

『養老之滝』

良寛心海筆

 美濃の国の親孝行者な若者が、ある日香り高い酒が湧き出る泉に行き会い、その酒を目の不自由な老父に与えたところ、目が見えるようになったと言う伝説を画題としたもの。

 
   
養老の瀧

広渡心海良寛(1806〜1888)

 広渡心海良寛は、文化3(1806)年、西田小路に生まれた。広渡法橋心海の系譜は、守行の子弥三左衛門と、守行の弟権八の代で跡絶えたため、文政11(1828)年10月5日、幼少より絵の器量に優れた武雄家重臣の加々良判兵衛広胖の次男良寛が、武雄領主鍋島茂順より起用され、権八の跡を継ぎ、広渡心海の名を継承した。心海良寛は、その後、江戸に出て狩野良信に学び、帰郷後も武雄鍋島家の御抱え絵師として卓抜した作品を残している。



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