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 写真術は古くから研究が行われており、19世紀初頭まではカメラ・オブスクラ〔camera obscura〕を使い紙等に映した映像を筆等でなぞる方法が普及していました。フランスのルイ・ジャック・マンデ・ダゲール(1787-1851)が映像を化学的に定着させるダゲレオタイプ(銀板写真)を発明し、それが1839年にパリの科学アカデミーで発表されると、写真は世界中に広まり、その後も飛躍的に進化していきました。
 一般に、写真機が日本に輸入されたのは、嘉永元(1847)年に長崎出島に渡来したダゲレオタイプ機材一式を長崎の時計師・上野俊之丞が買い付けたのが初めとされています。しかし、『長崎方控(二)』(武雄鍋島家資料)によると、弘化3(1846)年に武雄領主鍋島茂義が俊之丞から写真機1箱を借用している記述が見られます。これにより弘化3年以前に俊之丞が写真機を所持していたことや、武雄が国内でもいち早く写真機導入を図っていたことを窺い知ることができます。
 江戸末期になると下岡蓮杖や上野俊之丞の子である上野彦馬が写真師として開業し、武雄からも木々津又六が彦馬のもとで写真術を学ぶようになります。
 今回のミニ企画展では、様々な人々や風景を写し記録してきた写真について、武雄に残る資料とともにみていきたいと思います。

場所:蘭学館ミニ展示コーナー(観覧無料)
期日:平成22年10月22日(金)〜平成23年1月19日(水)


ガルハ焼入器
   
 

ガルハ焼入れ器

1860年代 武雄鍋島家資料
武雄市蔵

 イギリスの写真機器メーカー、ネグレッティ&ザンブラ社製。1860年代にはロッシュを特派員として日本に派遣し、機材の売り込み、写真雑誌の発行などを行っている。『長崎御注文方控』(武雄鍋島家資料)には「ガルハ仕掛けランプ」として、慶応4(1868)年の購入であることが記されている。マグネシウムを燃やす投光機で、写真撮影の際の照明として用いられたと思われる。ガルハとはオランダ語でマグネシウムの事と考えられる。この年代のネグレッティ&ザンブラ社の写真機材は残存数が少なく、国内においてもイギリスにおいても、他に現物は確認されていない。
 ガルハ焼入れ器の後ろの冊子は『火術製薬備忘録』(慶応2年〜 武雄鍋島家資料)。火薬の配合などの記載と共に、「ガルハ仕掛ランプ(ガルハ焼入れ器)」のマグネシウムリボンの燃焼量と時間に関する記述が見える。同じ内容を記した紙(下段写真)が、ガルハ焼入れ器の箱に入っていた。

 
   

   
 

『鶏卵写真』

元治〜慶応年間(1864〜1868) 武雄鍋島家資料
武雄市蔵

 湿板写真機で撮影された写真。この写真では、アルビューメンプリント(鶏卵紙印画)という卵白を用いた技術を用いている。湿板写真術はダゲレオタイプの次に普及した方法で、日本国内で写真館が開業するきっかけとなった。
 この6枚の写真は、使用されている椅子や台などから、日本最初の職業写真師である上野彦馬の撮影場(長崎)で撮影されたものと思われる。特に下段中央の写真の黒い台は、坂本龍馬の撮影時にも用いられたもので、現在までに5例しか確認されていない希少なものである。残念ながら、この写真については、被写体の人物が未詳である。

 
   
鶏卵写真

ガラス乾板写真
   
 
 

ガラス乾板写真

昭和初期 武雄市蔵

 ガラス乾板写真は、焼き増しが可能で、湿板写真より撮影の手間が軽減されるため明治〜昭和にかけて広く普及した。写真機の種類も多様である。このガラス原版は全部で16枚残っており、現像した写真には、御船山、旧制武雄中学校(現在の武雄高校)、武雄温泉などが見える。昭和初期のものと思われる。

 
 


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