平成25年度 武雄市図書館・歴史資料館企画展

武雄に残る絵図展

 武雄鍋島家資料には、慶長10(1605)年、および正保4(1647)年の「肥前国絵図」をはじめ、江戸時代前期に描かれた世界図の写しや18世紀の世界万国図、長崎の台場絵図や武雄の鍋島邸図、佐賀城内にあった武雄屋敷図、また、江戸時代に調査された中世山城跡図、武雄領内の地図類など、100枚以上もの絵図が残されており、近年、その希少性と貴重さは注目を集めています。
 奇しくも、今年は、日本最初の実測地図「大日本沿海輿地全図」を作製した伊能忠敬(1745〜1818)の測量隊が武雄を測量してから200年目にあたります。郷土に対する興味や認識を深める一助として、その多くが初公開となる武雄に残された絵図の数々の展示を行います。


場所:蘭学・企画展示室(観覧無料)
期日:平成25年10月5日(土)〜11月10日(日)
      月曜休館(ただし、月曜日が祝日の場合は、その翌日)
ギャリートーク:いずれも13:30〜
10月12日(土)・25日(金)・11月9日(土)


 デジタル展示について 



肥前全図 肥前全図 拡大
   
 
 

『肥前全図』

武雄市重要文化財
江戸時代
武雄鍋島家資料 武雄市蔵

 武雄鍋島家旧蔵の資料で、裏面に「肥前全図」の表題がある。海や川を青、主たる山を茶、街道を赤、郡境を白、国境を黒色で描いている。郡別に総石高、田畑の面積、寺社領石高、物成小物成高が色分けされた付箋に書かれている。石高は慶長検地の石高で、この絵図が慶長の国絵図であることがわかる。慶長の国絵図は全国に命令して作成され幕府に提出されたが、明暦の大火で消失し正図は1枚も残っていない。現在は、その控図や写し図が全国的にみても15舗しか確認されていない。
 本図は控図の写しを所持していた大村藩から佐賀藩が天保8年(1837)頃に借用して写したものの一つと考えられる。
 右は、杵島郡(現在の武雄市)付近の拡大図。村の名や石高と共に、元和元年(1615)、一国一城令で廃城となった武雄城(塚崎城)の記載も見える。

 
 


武雄絵図 武雄絵図 拡大
   
 
 

『武雄絵図』

江戸時代
武雄鍋島家資料 武雄市蔵

 武雄邑(北方町を除く、現在の武雄市)全体を描いた絵図。西川登町、若木町、山内町についても、一部を欠く。
 上瀧村から甘久村、河良村(現在の表記は「川良」)、八並村、西山村、内田村を通る長崎街道、西谷山付近で長崎街道から分岐して西谷峠・永尾村・鳥海村を通る唐津街道など、道が赤、集落が黄、畠が白で描かれ、中央やや南寄りには湯町(温泉周辺)、宮野町、西田小路に家屋が立ち並ぶ様子が見える。城山とも呼ばれた御船山は、その特徴的な姿が図示されているが、北麓に立地した領主(邑主)の館は、全く表現されていない。
 右は、御船山・桜山周辺の拡大図。本陣(武雄温泉)の他、参道や鳥居を含む武雄社(武雄神社)、廣福寺、西福寺等、今も残る寺社などが描かれている。

 
 


袴野村、宇土手村之図 袴野村、宇土手村之図 拡大
   
 
 

『袴野村、宇土手村之図』

江戸時代
武雄鍋島家資料 武雄市蔵

 絵図の欠損部は城館跡の位置と一致することから、意図的に取り除かれたことも考えられる。
 地図の中には、現在の西川登町弓野地区も含まれ、登り窯が描かれている。江戸時代初期、東川登永野の内田皿山(小山路窯)ならびに、袴野甕屋の陶工たちが、弓野や小田志、庭木へと移住し、開窯したと言われる。後には武内からも移住したとされ、陶器としては大型の鉢・甕・徳利などが多く作られた。赤土の素地に刷毛目化粧を施し、飴色釉で樹幹を、緑釉で松葉を描いた二彩松絵は、とくに有名である。江戸時代終わりから近代にかけては、磁器も焼成され、皿・碗・瓶などが作られた。
 右は、『弓野山』一帯に描かれた登り窯の図。

 
 


 武雄の蘭学   過去の企画展へ 

 歴史資料館TOPへ 

Copyright (C) Takeo City Library&Historical Museum