平成26年度 武雄市図書館・歴史資料館企画展

国重要文化財指定記念特別展

日本を動かす!

武雄鍋島家洋学資料展


 武雄には、西洋砲術関係資料、蘭書、また、天球儀・地球儀をはじめとする器物など、江戸時代後期から幕末にかけての全国的にも稀有で、かつ貴重な洋学関係資料が多く残されています。
 これらの資料は、大半が江戸時代後期、武雄の領主鍋島茂義の時代に蒐集されたもので、オランダを経由して日本にもたらされた学問「蘭学」を大胆に受容する茂義の姿勢は、佐賀藩主鍋島直正に多大な影響を与え、幕末期、佐賀藩を最強の雄藩に押し上げることに多大の貢献をはたしました。
 また、茂義の時代から武雄で始まった西洋式砲術と軍隊の調練は、その子茂昌の時代に大きな成果を挙げ、戊辰戦争では、出動命令を受けた武雄軍団が旧幕府軍鎮圧の切り札として大きな役割を担いました。
 日本の近代化の原点は武雄に有ると言っても過言はありません。
 平成26年8月21日、貴重な武雄鍋島家資料のうち、2,224点もの資料が「武雄鍋島家洋学関係資料」として国の重要文化財の一括指定を受けました。これを記念して、その一部を紹介し、日本の近代化に重要な功績をはたした武雄の資料に新たな視点と評価を加えて頂きたく、特別展覧会「日本を動かす! 武雄鍋島家洋学資料展」を開催します。


場所:蘭学・企画展示室(観覧無料)
期日:平成26年12月13日(土)〜平成27年1月12日(祝)

ギャリートーク:いずれも13:30〜
12月13日(土)・20日(土)・23日(祝)・28日(日)
1月2日(金)・7日(水)・11日(日)・12日(祝)


展示物の一部を下に紹介します。

 

  西洋渡来の品々

 鎖国の時代、長崎に築造された出島は唯一西洋に開かれた戸口であった。この貿易港長崎の警備の一翼を担っていた武雄では、その利点を活かし、1830年代ころから出島のオランダ商館を通じて、蘭書をはじめ、様々な西洋の品々の導入を積極的に、かつ精力的に展開する。こうした西洋渡来の品々のなかには、単に舶来品として珍しいものばかりではなく、当時の日本の社会に適応するように改造がほどこされた製品も見られる。明治以降、西洋諸国から「東洋の奇跡」と呼ばれた日本の近代化、その日本の発展を支えた、「日本のモノづくり」の原点を垣間見ることができる資料も残されている。


オルゴール時計
   
 

オルゴール時計

フランス製 19世紀
武雄鍋島家資料 武雄市蔵

鹿の角に手をかける女性像など、装飾を配した置時計。ある任意の時刻を設定すると、その時刻の到来をオルゴールが知らせる。オルゴールは複数の曲を設定できる。台座部の2つのボタンにはフランス語で、曲の変更を指示する「Changez」「Jouez」の文字が刻まれている。また、台座の底板に墨書で「1319」「No83.glap.」やローマ字日本人名と思しき文字が記されている。

 
   

 

  西洋砲術の導入

 武雄の領主鍋島茂義は、天保3(1832)年、佐賀本藩に先駆け、家臣平山醇左衛門を、西洋砲術の第一人者、長崎の高島秋帆のもとに入門させ、2年後には自らもその門をたたいた。また、天保6年には、高島が武雄を訪れ、日本人によって作られた日本最初の西洋式大砲モルチール砲がもたらされた。その翌年、茂義は高島から砲術の免許皆伝を許され、以後、武雄領内で西洋式の砲術演習や軍隊調練が活発に行われた。さらに天保11年には、神埼郡の岩田で武雄の砲術を藩主直正に披露。これが佐賀藩砲術の大プロジェクトの出発点となった。武雄の砲術関係資料は、「武雄鍋島家洋学関係資料」の中核をなす資料群である。


   
 

江戸時代後期
武雄鍋島家資料 武雄市蔵

 発射薬(火薬)への点火に、雷管(ニップル)を用いる菅打銃である。ただし、引き金に連動して雷管キャップに打撃を加えるハンマー等の機関部を欠いている。国内で製作されたものであると考えられるが、製作地は不明。武雄領にもお抱えの鉄砲鍛冶がいたことから、当地で製造された可能性も否定できない。

 
   
銃

 

  長崎警備と海外情報

 江戸幕府は、寛政18(1641)年、平戸のオランダ商館を長崎の出島に移し、鎖国を完成。以後、二百年余り、日本は長崎の地で、西洋の国ではオランダとだけ貿易を行うこととなる。そして、幕府は、この国際貿易港を、近隣の、外様でなおかつ比較的大藩であった福岡藩と佐賀藩に隔年で警備することを命じた。このことは佐賀藩にとって多大の緊張と負担を強いられるものであったが、一方では、進んだ西洋の文明に接し、日本周辺とまた日本から遠く離れた海外の情報をもいち早く入手する好機に恵まれることにもなった。そうした海外情報導入のうえでも武雄領が果たした役割は大きく、幕末に佐賀藩が日本最強ともいうべき雄藩への成長を支えたと言える。


蝦夷闔境輿地全図
   
 

蝦夷闔境輿地全図

 嘉永7(1854)年
武雄鍋島家資料 武雄市蔵

「日本北方への関心の高まりから、幕末には多くの実用的蝦夷図が民間で刊行された。本図は「嘉永七年甲寅四月」「江戸書物問屋 日本橋通十軒店 播磨屋勝五郎」が発行したものの写しで、カラフト、千島列島を含み、多数の地名、航路、陸路が記載されている。原本には無い「石炭」「鮭」等の産物、「最上徳内測量ニ四十八度ヲ得たりと云 間宮林蔵ニ四十七度余ヲ得タリト云」等の情報も朱文字で書き加えられている。本図の緯度経度の記載が正確さを欠くことから、実測の情報を加えたものと考えられる。佐賀藩では安政4(1857)年、鍋島直正の命により箱館奉行堀利煕の蝦夷地巡検に島義勇が同行して「入北記」を纏めるなど、「蝦夷地」と呼ばれていた北海道開拓に意欲を示していた。明治2(1869)年には直正が初代の開拓使長官に任じられた。この資料も、そうした蝦夷地(北海道)への深い関心を伺わせる。

 
   
 
 

  武雄のサイエンス

 武雄鍋島家に残された膨大な資料のなかに、「長崎方控」という資料がある。武雄では、およそ天保年間の初めのころから、武雄と長崎を往き来する家臣を通じて、長崎に集められる様々な物品を購入していた。その事実が克明に記録されたのが「長崎方控」である。ここに記載される物品は、天球儀・地球儀、望遠鏡、時計などの好奇をそそる製品にとどまらず、諸分野の蘭書、薬品や植物、ガラス瓶、温度計、比重計、エレキテル、測量具、顕微鏡、蘭書の翻訳書など、あらゆるものの記載が見られる。加えて、それらが実験等に活用されていたことも記される。まさに武雄のサイエンスの軌跡が裏付けられる。


時事解説事典
   
 

時事解説事典

1732年 ヒュプネル著
武雄鍋島家資料 武雄市蔵

 ドイツで版を重ねた新聞・雑誌を読むための日用百科辞典の蘭訳。阿蘭陀通詞、蘭学者が世界地理情報の典拠として重用した。鍋島茂義は本書を弘化2(1845)年10月に「地理字典」として購入した。「武縣庫籍」(武雄鍋島家の蔵書印)、「本木印」(阿蘭陀通詞本木家の蔵書印)、「皆春齋」(鍋島茂義の蔵書印)の印記がある。アフリカ、アメリカなどの地名に付けられた多くの赤通し(赤色の紙片)は本木良永による地理研究の跡であろうか。「西洋原書簿」の「ヒュブ子ル コンストヲールトブーク原三冊」の1冊にあたる。銀杏の葉が数カ所に挟み込まれている。樟脳の役割を持たせたものかと思われる。

 
   
 
 

  戊辰戦争への出動

 慶応4(1868)年5月、鍋島茂昌は「多年西洋砲術研究練兵の趣、聞し召され候につき」として出兵を命じられた。佐賀藩の陪臣にすぎない武雄領主に対する異例とも言うべき出来事で、武雄領内での多年にわたる蘭学研究、および西洋砲術調練の成果が評価された証しでもある。約千名からなる武雄隊を率いて出兵の途上、京都の朝廷に参内した茂昌は、錦の御旗、盃、軍扇などを天皇から拝領、その後、秋田方面へと出撃。当時、東北諸藩中では最強と言われた庄内藩との戦闘のため羽州を転戦する。庄内降伏後、東京に凱旋した武雄隊には、明治政府から「余程の強兵」として関東方面の警衛を依頼されるほどであった。武雄鍋島家資料の戊辰戦争関係資料も千点に上る膨大な資料である。


大村益次郎書状
   
 

大村益次郎書状

明治元(1868)年11月
武雄鍋島家資料 武雄市蔵

 11月10日、軍務官副知事であった長州出身の大村益次郎から佐賀出身の会計局判事島団右衛門(義勇)に宛てて出された書状。鍋島茂昌から武雄への帰国願いが出されているなか、明治政府として、いまだ世情不安定な東京の警備のため、「余程の強兵」である武雄軍団にしばらくの間、警備の中心となるよう期待を寄せる様子が知られる。諸系図等によれば、茂昌と島義勇は、それぞれ母と父が佐賀藩士島市郎左衛門の子であり、二人は従兄弟の関係であった。茂昌が武雄隊の帰国の嘆願について島義勇を通じて言上した事情も伺える資料である。

 
   
 

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