平成26年度 武雄市図書館・歴史資料館企画展 国重要文化財指定記念特別展 日本を動かす! 武雄鍋島家洋学資料展
武雄には、西洋砲術関係資料、蘭書、また、天球儀・地球儀をはじめとする器物など、江戸時代後期から幕末にかけての全国的にも稀有で、かつ貴重な洋学関係資料が多く残されています。 |
場所:蘭学・企画展示室(観覧無料) |
展示物の一部を下に紹介します。
西洋渡来の品々 鎖国の時代、長崎に築造された出島は唯一西洋に開かれた戸口であった。この貿易港長崎の警備の一翼を担っていた武雄では、その利点を活かし、1830年代ころから出島のオランダ商館を通じて、蘭書をはじめ、様々な西洋の品々の導入を積極的に、かつ精力的に展開する。こうした西洋渡来の品々のなかには、単に舶来品として珍しいものばかりではなく、当時の日本の社会に適応するように改造がほどこされた製品も見られる。明治以降、西洋諸国から「東洋の奇跡」と呼ばれた日本の近代化、その日本の発展を支えた、「日本のモノづくり」の原点を垣間見ることができる資料も残されている。
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西洋砲術の導入 武雄の領主鍋島茂義は、天保3(1832)年、佐賀本藩に先駆け、家臣平山醇左衛門を、西洋砲術の第一人者、長崎の高島秋帆のもとに入門させ、2年後には自らもその門をたたいた。また、天保6年には、高島が武雄を訪れ、日本人によって作られた日本最初の西洋式大砲モルチール砲がもたらされた。その翌年、茂義は高島から砲術の免許皆伝を許され、以後、武雄領内で西洋式の砲術演習や軍隊調練が活発に行われた。さらに天保11年には、神埼郡の岩田で武雄の砲術を藩主直正に披露。これが佐賀藩砲術の大プロジェクトの出発点となった。武雄の砲術関係資料は、「武雄鍋島家洋学関係資料」の中核をなす資料群である。
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長崎警備と海外情報 江戸幕府は、寛政18(1641)年、平戸のオランダ商館を長崎の出島に移し、鎖国を完成。以後、二百年余り、日本は長崎の地で、西洋の国ではオランダとだけ貿易を行うこととなる。そして、幕府は、この国際貿易港を、近隣の、外様でなおかつ比較的大藩であった福岡藩と佐賀藩に隔年で警備することを命じた。このことは佐賀藩にとって多大の緊張と負担を強いられるものであったが、一方では、進んだ西洋の文明に接し、日本周辺とまた日本から遠く離れた海外の情報をもいち早く入手する好機に恵まれることにもなった。そうした海外情報導入のうえでも武雄領が果たした役割は大きく、幕末に佐賀藩が日本最強ともいうべき雄藩への成長を支えたと言える。 |
武雄のサイエンス 武雄鍋島家に残された膨大な資料のなかに、「長崎方控」という資料がある。武雄では、およそ天保年間の初めのころから、武雄と長崎を往き来する家臣を通じて、長崎に集められる様々な物品を購入していた。その事実が克明に記録されたのが「長崎方控」である。ここに記載される物品は、天球儀・地球儀、望遠鏡、時計などの好奇をそそる製品にとどまらず、諸分野の蘭書、薬品や植物、ガラス瓶、温度計、比重計、エレキテル、測量具、顕微鏡、蘭書の翻訳書など、あらゆるものの記載が見られる。加えて、それらが実験等に活用されていたことも記される。まさに武雄のサイエンスの軌跡が裏付けられる。
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戊辰戦争への出動 慶応4(1868)年5月、鍋島茂昌は「多年西洋砲術研究練兵の趣、聞し召され候につき」として出兵を命じられた。佐賀藩の陪臣にすぎない武雄領主に対する異例とも言うべき出来事で、武雄領内での多年にわたる蘭学研究、および西洋砲術調練の成果が評価された証しでもある。約千名からなる武雄隊を率いて出兵の途上、京都の朝廷に参内した茂昌は、錦の御旗、盃、軍扇などを天皇から拝領、その後、秋田方面へと出撃。当時、東北諸藩中では最強と言われた庄内藩との戦闘のため羽州を転戦する。庄内降伏後、東京に凱旋した武雄隊には、明治政府から「余程の強兵」として関東方面の警衛を依頼されるほどであった。武雄鍋島家資料の戊辰戦争関係資料も千点に上る膨大な資料である。
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