武雄鍋島家と洋学資料について


 武雄鍋島家は中世から武雄地方に居を構え、第20代までは後藤を称しました。
 戦国時代末期から江戸時代初頭の混迷期、家内の争いを治めるために龍造寺隆信の助力を乞うたことから、第19代後藤貴明(ごとうたかあきら)は隆信の三男を養子として迎え、家督を継がせました。さらに、肥前の実権が龍造寺家から鍋島家に移る過程で、後藤家も鍋島家の傘下に入ることとなりました。この関係から江戸時代の武雄領は龍造寺系の他の三家とともに親類同格に位置付けられ、藩の請役(筆頭家老)を務め、領内での大幅な自治も許されました。
 武雄領の第28代領主鍋島茂義(なべしましげよし)は、23歳の部屋住みの身で佐賀藩の請役(うけやく)に異例の抜擢をされた俊才であり、武雄の洋学資料の多くは彼によって収集されました。
 その活動の始まりは天保年間の初め(1830年頃)と考えられます。
 天保3年(1832年)には家臣の平山醇左衛門を当時の西洋砲術の第一人者である長崎の高島秋帆(たかしましゅうはん)に入門させ、西洋砲術や大砲鋳造技術などを習得させています。天保6年には高島を武雄に招聘して領内での砲術訓練、大砲鋳造等に着手しており、翌7年には武雄で青銅製大砲が製作されたものと思われます。
 天保11年には神埼において、佐賀藩主鍋島斉正(なりまさ)(後に直正と改名し、閑叟(かんそう)と号する。)の前で、試射を成功させました。試射を見た斉正は、本藩にも西洋砲術を本格的に取り入れることを決め、茂義を砲術指南役に任じ、平山醇左衛門や、神埼での試射に参加した武雄家家臣浦田八郎左衛門、横田善吾に指導を命じました。
 茂義は、1824年にブレスト(フランス西部の都市)で試射実験が行われ、天保11年に日本に情報が伝わった新型砲ペキサンス砲(ボンベカノン)の試射実験報告書を発注し、弘化2年(1845年)にオランダ語に訳されたものを購入。翻訳して実物大切形とともに直正に献上しています。武雄鍋島家の洋学資料の中には、こうした、茂義の情報収集の能力の高さや最新技術導入への強い意欲が見て取れる資料が数多く含まれます。
 また、武雄鍋島家が、砲術以外にも、牛痘(ぎゅうとう)の実施、ガラスの製作、火術・火薬の研究、写真術の導入、蒸気船の製造、博物学的な植物図絵の作成、標本製作など、様々な仕事に取り組んだことを示す資料も残されています。
 こうした資料のうち2,224点が、平成26年3月18日の文化財審議会において、我が国の江戸時代後期における西洋の科学技術の受容に関係する非常に貴重な歴史資料「武雄鍋島家洋学関係資料」として重要文化財に指定するよう文部科学大臣に答申され、8月21日の文部科学省告示第百十号で正式に指定されました。


名 称員 数所有者(所在場所)

(重要文化財指定)
武雄鍋島家洋学関係資料

一括
(全2,224点)

武雄市
(武雄市図書館・歴史資料館)

【内訳】
 一 文書・記録類
 一 標本類
 一 和書・訳書類
 一 洋書類
 一 絵図・地図類
 一 図面類
 一 写真
 一 器物類


1,304点
4点
284点
133点
36点
159点
7点
297点


 主な資料の紹介 


   
 

文書・記録類より 「長崎方控」


長崎方控

 今回指定の文書・記録類は、江戸後期から明治維新期にわたるもので、武雄の蘭学・洋学受容の軌跡が時代を追って見て取れる点に特徴がある。
 「長崎方控」は、全5冊の内第1冊を欠き、天保9年(1838)の記載から始まる第2冊から第5冊までの4冊が伝存する。各冊とも前半は注文品、後半は到来品の記録である。長崎経由で武雄に西洋の書籍・器物類が数多くもたらされたことが見て取れ、地球儀・天球儀の到来記事は、その一例である。
 第5冊の注文品の記事は、文久2年(1862)9月、到来品の記事は同年閏8月で途絶え、各々14丁、32丁もの白紙を余す。鍋島茂義が同年11月に没したことと考え合わせれば、茂義の御用品リストとみなされる。武雄蘭学が茂義の主導下で深められたことを物語る資料である。

 
   
   
 

和書・訳書類より 「ボンベカノン」


ボンベカノン

 1824年、ブレストで行われた破裂弾用の新式砲、ペキサンス砲(ボンベカノン)試射実験報告書の訳本。全5冊のうち、第2冊、第5冊のみ伝存する。
 ペキサンス砲の情報は、アヘン戦争が勃発した天保11年(1840)に日本に伝わった。武雄では、早くもこの年11月に平山醇左衛門が「ペキサンス大砲絵図」を長崎に発注。弘化2年(1845)10月には鍋島茂義がペキサンスのオランダ語版を購入した。これを翌年8月までに、武雄領抱えの長崎のオランダ通詞西記志十に訳させたのが、この資料である。
 付箋から、海岸防備用ボンベカノンに関する第21章の抜書、および80ポンド砲の付図を、嘉永元年(1848)7月22日に「少将様」、即ち佐賀藩主鍋島直正に献上したことが判る。

 
   
   
 

器物類より 「天球儀(左)・地球儀(右)


天球儀・地球儀

 オランダ・アムステルダムの地図・地球儀製作者であるレオナルド・ファルク(1675〜1746)の工房が製作した地球儀及び天球儀である。地球儀と天球儀が一対で伝来しているのは珍しい。
 天球儀は、空を球体に見立て、天体の運行モデルを表すもので、どの緯度の地点から何月何日のどの方角にどの天体が運行するのかを知ることができる。
 レオナルドは、父ヘラルト(1651〜1726)と共に地図・地球儀製作の工房を経営しており、ファルク工房が製作した天球儀は、ポーランドの天文学者ヨハネス・ヘベリウス(1611〜1687)による当時の最新の天文情報を反映したものであるとともに、星座の人物・動物等を絵画的に描き、観賞用としても楽しめる。
 本品は、ファルク父子が世を去り、レオナルドの妻マリア・シェンク(?〜1770年)が工房を経営した時期の作例である。地球儀と同じく天保15年(1844年)に長崎で武雄鍋島家が入手したものである。
 地球儀は、1745年に製作されたもので、本品のラテン語銘に、レオナルドと父ヘラルトとの共作であると記されている。ファルク工房の地球儀は。フランス王立アカデミーによる当時最新の世界地理認識を反映したもので、天球儀と同じく天保15年に武雄鍋島家が入手したものである。

 
   

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