平成27年度 武雄市図書館・歴史資料館企画展

タイムトラベル武雄温泉

 武雄の温泉は、730年頃に成立した『肥前国風土記』にも記された歴史のある温泉です。ただし、「岸峻しくて人跡罕に及る也」とあることから、当時は余り利用されていなかったものと考えられます。
多くの人々が訪れるようになった記録が現れるのは戦国時代からで、文禄・慶長の役の際には、豊臣秀吉によって肥前 名護屋に集められた武将たちを癒す場としてもにぎわいました。
 江戸時代も長崎街道の宿場の一つとして多くの旅人が行き交う地となり、また保養の場でもありました。佐賀藩主も幾度も保養に訪れ、シーボルトや伊能忠敬の測量隊等も宿泊しています。
 明治以降、大量輸送の交通網の発達といわゆるお抱え外国人による温泉治療の推進の提言により、観光地・湯治場としての温泉地の地位が一層高まります。武雄温泉にも大規模なリゾート構想が持ち上がりました。
 残念ながら、計画全体は実現しませんでしたが、今年はその一環であった武雄温泉楼門・新館の竣工から100年に当たります。節目の年を記念した展覧会を企画します。

場所:蘭学・企画展示室(観覧無料)
期日:平成27年10月22日(木)〜11月29日(日)

ギャリートークは、:いずれも13:30〜
10月22日(木)・24日(土)・5日(祝)・11月3日(祝)
15日(日)・29日(日)


展示物の一部を下に紹介します。

名護屋城古図
   
 

名護屋城古図

江戸時代
武雄鍋島家資料 武雄市蔵

 豊臣秀吉は文禄および慶長の朝鮮出兵に際し、前進基地として唐津市鎮西町に肥前名護屋城を築城した。その周辺には全国の各大名の陣屋が設けられた。この図は、その陣屋の配置を示したもの。朝鮮出兵には武雄の後藤家も参戦し、武雄温泉は将兵たちの憩いの場として利用された。

 
   

   
 

丙寅歳諸控

貞享3(1686)年
武雄鍋島家資料 武雄市蔵

貞享3(1686)年4月晦日の条に、「一 湯治人に至り所の者無礼其外無作法の儀仕り間敷き事/一 喧嘩口論堅く停止すべき事/一 高雑談・小うた・高謡の類禁止すべきこと」などと、湯治客に対する地元武雄の人の態度を規定した「定」が記されている。また「湯屋の門にこれあり候」「今日相替えらる」とあることから、湯屋の門に入浴規定が掲げられていたことがわかる。

 
   
丙寅歳諸控

日本輿地新増行程記大全
   
 

日本輿地新増行程記大全

明和3(1766)年
武雄市蔵

 松前藩統治下の蝦夷(北海道)に一部から、対馬・五島・壱岐を含む九州、朝鮮半島の一部までを納めた地図。地図はかなりデフォルメされているが、主要な街道や海路、宿、宿間の距離、土地の情報などが記されている。長崎街道は成瀬−塩田ルートが描かれているが、嬉野−唐津間の脇往還の宿として塚崎の名が見え、「無双の温泉アリ」と記されている。嬉野に「テユ(出湯)アリ」、小浜に「温泉」とのみ記されていることと併せて考えれば、当時から塚崎宿が温泉地として著名であったことが伺える。

 
   

   
 

明治大見立改正新版大日本温泉一覧

明治時代
武雄市蔵

宝暦7(1757)年、江戸で今日のような形の相撲番付が作られると序列が一列でわかり、東西の比較もしやすいことから、たちまち各種の見立て番付が作られた。温泉に関しても多くのものが、明治時代になっても作成された。この『大日本温泉一覧』では、世話人に「銚子ノ海水浴」「大磯ノ海水浴」が記され、番付上の温泉の効能の記載がなくなっている。明治以降、レクリエーションとしての海水浴が行われるようになったことと併せて考えると、湯治場としてではなく、観光地・保養地としての温泉場の紹介を意図して作成されたものではないかと推測される。 武雄温泉は、「ヒゼン 竹尾ノ温泉」の名で、東国の前頭に登場している。

 
   
明治大見立改正新版大日本温泉一覧


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