平成27年度 武雄市図書館・歴史資料館特別企画展

佐賀の乱と武雄

 260年以上続いた徳川幕府が倒れた後、世界に門戸を開いた明治政府は、様々な改革を推進しました。けれど、その動きに不満を覚える人々も少なくはなく、明治7年2月、ついに佐賀において元武士であった士族と明治政府が武力で衝突する事件が起きます。
 これがいわゆる佐賀の乱で、その後、各地で発生する不平士族の騒乱の端緒となりました。
 武雄も、江戸時代初頭の佐賀藩成立期以降、その支配下にあったこと。当時の当主であった鍋島茂昌が、乱の首謀者の一人である島義勇と従兄弟の関係にあったこと。さらに、旧幕府軍と新政府軍が戦った戊辰戦争において、茂昌率いる武雄軍団の活躍が大きく評価されていたことなどから、騒動の当初から佐賀士族側に加担することを、期待されていました。
 武雄は、これを拒否していましたが、再三の強い要請を拒否できず、結局、64名の兵士を佐賀軍応援の為に出兵させます。
 このため政府軍が勝利した後、中央政府に在って乱の鎮圧に当たった山口尚芳(ますか)が、武雄の赦免のために奔走することとなりました。
 今回の展示では、これまであまり紹介されてこなかった武雄に残る佐賀の乱関係の資料を元に、乱の中での武雄の動きを紹介していきます。
 

場所:蘭学・企画展示室(観覧無料)
期日:平成28年2月13日(土)〜3月13日(日)
担当学芸員のギャリートークは、
2月21日(日)・27日(土)・3月5日(土)・13日(日):いずれも13:30〜


展示物の一部を下に紹介します。
(期間中、展示されていない場合があります)
   

征韓論の図

   
 
 

征韓論の図

三枚一組 楊洲齋周延作 武雄市蔵

 征韓論政変を題材に多く描かれた錦絵の一枚。登場人物に、佐賀出身の大木、大隈、江藤の3人が描かれる。征韓論は朝鮮国への武力行使をめぐる問題で、国論が二分。明治6(1873)年10月、内閣を構成する9名の参議のうち、西郷隆盛、板垣退助、江藤新平と、後藤象二郎(土佐)、副島種臣(肥前)の5人が辞職した。この後の士族反乱の引き金になった出来事である。

 
 
 

書簡

   
 
 

書簡

明治7(1874)年2月14日 武雄鍋島家資料 武雄市蔵

 島義勇から後藤十郎(保明)宛ての書簡。明治7年2月13日、島義勇は武雄に来て、鍋島茂昌に面会した。翌14日、島は茂昌の弟である後藤十郎にも面会しているが、その日のうちに島から後藤十郎に出されたこの書簡には、茂昌を憂国党の党首に担ぎだそうとする意図が明らかで、後藤十郎に対しても、茂昌の佐賀軍への参加を再度、促すように要請している。

 
 

   
 

明治7(1874)年
武雄鍋島家資料 武雄市蔵

 茂昌の首領就任を働きかけていた憂国社に対する最終の返答書である。「衆議不得止御同意難仕相決候」として、佐賀憂国党への参加は同意し難いものとする武雄側の決心を伝えている。「日記 軍事方」(武雄鍋島家資料)によれば、2月15日のことで、この返答書を携えて、武雄士族である二位徳太郎(景暢)と五十村達之進が佐賀に向かったとある。

 
   
覚

皇国一新見聞誌
 佐賀の事件
   
 

皇国一新見聞誌 佐賀の事件

大蘇芳年作 明治9年6月5日
武雄市蔵

「佐賀の事件」という表題で明治7(1874)年の佐賀の乱を伝えた錦絵。「江藤・島が徒、政令を用ず自国にかへり陰謀を企て事既にならんとす、朝廷翰理大臣大久保卿をしてこれを討たしむ、賊、刻なくしてことごとく敗走す。終に賊等一名、刑に処せられて静謐す。 松村春輔誌」と解題が付される。

 
   
 
   
 

日記

明治7(1874)年
武雄鍋島家資料 武雄市蔵

 明治7年1月から3月にかけての佐賀の乱に旧武雄領がどのように関わったかを詳細に知ることができる基本資料で、貴重なもの。佐賀の乱に際して、武雄の動向を記述した報告書である「日記 軍事方」の草稿で、随所に加除修正がみられ、公式報告書とは異なった興味深い内容も記される。

 
   
日記
 
旧武雄家臣特赦名簿
   
 

旧武雄家臣特赦名簿

明治7年(1874)4月20日
武雄鍋島家資料 武雄市蔵

 佐賀県庁から鍋島茂昌以下、渕常忠、旗嶋勝興、平吉誠舒、木下公章、千綿安村、後藤保明に対して、翌21日午前9時の出頭命令が到達した。旧領主鍋島茂昌は「不快ニ付」との届を出し出頭を断っているが、他の6名と、二位徳太郎(影暢)が県庁に向かい、元武雄団1,555名の佐賀の乱での免罪が決定した。

 
   
 

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