平成27年度 武雄市図書館・歴史資料館特別展

武雄の大砲を見に行こう

 佐賀藩の洋学研究は、武雄の西洋砲術研究から展開しました。武雄領主鍋島茂義は、1832(天保3)年、当時、西洋砲術の第一人者であった長崎の高島秋帆のもとに家臣の平山山平(醇左衛門)を入門させます。さらに2年後には茂義自身も入門して砲術と大砲鋳造の基本原理などを学び、36年には高島流砲術の免許皆伝を得ました。1837(天保8)年9月16日、武雄領内真手野での砲術訓練では、「旦那様(茂義のこと)、ボンベン、御自身御詰め込み遊ばされ候末、右玉、御試し打ちあそばされ候」と、自ら試し打ちを行なうほどに習熟を遂げていたことも確認できます。
 こうした武雄での砲術研究と西洋式調練の成果は、茂義の弟で佐賀本藩家臣の養子となった坂部三十郎により佐賀に伝えられ藩主鍋島直正のもとで新たな発展を見せました。
    今回、武雄市歴史資料館では、武雄から始まる西洋砲術の取り組みと蘭学の導入、それが佐賀藩や幕末日本の近代化に果たした役割を学ぶ特別展を開催し、国重要文化財「武雄鍋島家洋学関係資料」を含む資料の展示を行います。

場所:蘭学・企画展示室(観覧無料)
期日:平成27年8月8日(土)〜9月6日(日)

ギャリートークは、:いずれも13:30〜
8月8日(土)・9日(日)・14日(金)・15日(土)
23日(日)・29日(土)・9月6日(日)


展示物の一部を下に紹介します。


御日記草書
   
 

御日記草書

文化5(1808)年
武雄鍋島家資料 武雄市蔵

 佐賀の武雄屋敷の記録。文化5年8月16日にフェートン号事件の発生を知らせる記述が見られる。(写真中央部付近)
 長崎に入った異国船が、当初はロシア船かと思われたこと、この異国船が少々乱暴に及んだこと。また17日には武雄神社や黒髪神社において「国家安全・家中安全」の祈祷が成されたことなどが記されている。

 
   

   
 

天保九戌三月改御側御筒其外帳

重要文化財
天保9(1838)年
武雄鍋島家資料 武雄市蔵

「天保五午の春、一、長崎有吉作之進製角石付剱長 四尺壱寸八分余台尻部込入て惣尺四尺三寸三分余 蘭国製弐匁御筒 一挺」との記述があり、天保5(1834)年春に蘭式角石付剱付弐匁筒一挺が購入されたことがわかる。これは、ヨーロッパで普及していた燧石銃のことである。天保5年正月「御側御筒控帳」によれば、当時、武雄の銃砲は77挺が蔵にあり、いずれも火縄銃で、そこに火打石式の新銃が試みに購入されたことからも、武雄領主鍋島茂義はこの前後から最新式の燧石銃などの銃砲に注目していたと見られる。

 
   
天保九戌三月改御側御筒其外帳

火縄銃
   
 

火縄銃

江戸後期 武雄市蔵

 火縄銃は、15世紀末頃ヨーロッパで考案された。日本には、天文12(1543)年に伝わり、戦国時代から江戸時代後期にかけて広く使われたが、幕末に管打ち銃などが大量に輸入されると衰退した。 「武雄住 吉村茂兵衛作」(写真:左下)「八十四」「吉」(写真:右下)の銘有。武雄に鉄砲鍛冶が存在したことは文書で確認されていたが、その作品が確認された例は現在、2挺のみである。

 
   

   
 

武雄領着到

重要文化財
嘉永2(1849)年頃
武雄鍋島家資料 武雄市蔵

 成立年が不明だが、修正の記載から天保13(1842)4月以前に作成され、嘉永2(1849)年9月までは活用されていたとみられる。諸職人の項に「一 御切米三石 鉄炮鍛冶 吉村弥助」の名がある。 武雄の鉄砲鍛冶は、「寛政五年(1793)四月写」の『惣着到』に「吉村善右衛門」、「寛政七(1795)年二月」の『惣着到』に吉村善右衛門改め「吉村文平」、「文政十三年(1830)正月」の『惣着到』に「吉村判助」等が記され、吉村家が世襲で鉄砲鍛冶を務めていたことを伺わせる。

 
   
武雄領着到

アームストロング砲照準器
   
 

アームストロング砲照準器

重要文化財
19世紀後半
武雄鍋島家資料 武雄市蔵

 『長崎方控』などの記述から、武雄でも幕末期に、当時最新式のアームストロング砲を相当数、輸入したものと思われる。武雄鍋島家には、大砲の照準器9本が伝来し、うち7本にアームストロング社の刻名が入っている。砲身の脇の前後に2本差し込み、照準を合わせる。

 
   


 武雄の蘭学   過去の企画展へ 

 歴史資料館TOPへ 

Copyright (C) Takeo City Library&Historical Museum