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名村貞五郎宛手紙 |
疱瘡への免疫を人工的につけようとする種痘は、十八世紀中頃、日本に伝わりましたが、当時の種痘法(人痘種痘法)は安全性に問題がありました。
安全な牛痘種痘法は、嘉永二年(一八四九)の佐賀藩の試みにより、全国に普及しました。
しかし、武雄ではそれ以前に、医師中村凉庵が、武雄領主鍋島茂義の子茂昌らに牛痘を接種したと伝えられます。
中村凉庵は、文化六年(一八〇九)弓野村に生まれました。十五歳で京都に学び、さらに先進の西洋医学を研究するため長崎に出ました。
天保二年(一八三一)には武雄に帰って開業しましたが、茂義の勧めで再び長崎へ遊学します。凉庵は、蘭方医楢林栄建宅に住み込みました。楢林塾では、数年前までシーボルトが市民の治療をしていました。凉庵は、シーボルトが伝えた最新医学を学んだのです。
天保十年、武雄に戻った凉庵は、茂義のお抱え医師になりました。この年、妹の子供らと茂昌に接種したことが『中村凉庵跡調』(注1)(中村凉庵墓誌の写し)に見られます。
また、凉庵の妹園の孫である牟田悌一氏の『浄天公附近古武雄史談』(注2)には、接種は天保八年のことと記され「牛の疱瘡を植えると角がはえるなどと言いふらした者があった。私は心配で、兄に話をすると、そんな馬鹿な話に迷うてどうするかと言われた。子供の命を取られるような思いがした」との園の話もみえます。
凉庵はその後、長崎で和蘭医官ボードウィンにつくなどして、研究を重ねました。明治になって佐賀に好生館(現佐賀県立病院)が出来ると、ここの副院長にも就任しています。
※注1 「武雄鍋島家歴史資料目録(続編)」二−297
※注2 「武雄鍋島文書目録」B−46
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