武雄領の医学



西洋水漉

西洋水漉
イギリスのマンチェスターで製造された陶器製で、内部に海綿があり、下部に蛇口が付いています。浄水器として使われました。

 戦国時代、鉄砲の伝来とともに西洋医学ももたらされました。けれども日本の医学の中心は、やはり中国系の医術でした。
 西洋医学が積極的に活用されるようになるのは、十八世紀中頃。実用性の高さから、蘭学の中で最も早く導入されました。
 文化元年(一八〇四)に、全身麻酔による乳癌摘出手術を成功させた華岡青洲の塾、オランダ商館医シーボルトが文政七年(一八二四)に、長崎の鳴滝に設けた診療所兼学塾で、当時の蘭学に大きな影響を与えた鳴滝塾、佐賀出身の医師で江戸蘭学三大家の一人に数えられた伊東玄朴が、天保四年(一八三三)に江戸に開いた象先堂などに、武雄出身の人々も入門しています。かれらの努力により、武雄領にも西洋医学が根付いて行きました。
 江戸時代後期には弾圧も受けましたが、安政五年(一八五八)に江戸で疱瘡(天然痘)が大流行し、その頃日本に伝えられた種痘が、治療にたいへん有効であることは、幕府も認めざるをえませんでした。
 当時疱瘡は、麻疹(はしか)、水疱瘡とともに人生の「お役三病」とされ、死亡率が高く、治っても痘痕が残ったり失明したりするので、特に恐れられた疫病(伝染病)です。佐賀でも、江戸時代に七回流行した記録があります。(注1)
 佐賀藩医楢林宗建は、イギリスのジェンナーが一七九六年に発見した安全で有効な牛痘種痘法を、嘉永二年(一八四九)に試みました。日本における牛痘の組織的普及の開始とされています。
 武雄では、茂義のお抱え医師中村凉庵が、これより早い天保八年、領主の子らに接種したことが伝えられています。(注2)

※注1 『佐賀の蘭学者たち』(鍵山栄著/佐賀新聞社)
※注2 『浄天公附近古武雄史談』(「武雄鍋島文書目録」B−46)



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