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画帖 |
薬園を営み、蒸気を通した温室で、数十種の桜草や天保年間になって日本に入ったダリアを栽培するなど。植物への造詣が深かった二十八代武雄領主鍋島茂義は、博物学全般にも強い興味を示していました。
江戸時代、植物や鉱物などの天産物に関する学問は、本草学と言われる薬の研究が主流でした。
しかし、八代将軍吉宗の時代、殖産興業政策の下、全国諸藩に天産物の調査が命じられ、また宝暦七年(一七五七)には、江戸で全国の珍しい天産物を紹介する展覧会が開かれて好評を博しました。
こうした動きの結果、本草学の裾野が広がり、対象も、薬用産物に限定されなくなって行きました。本草学が、あらゆる天産物自体を研究する、博物学に向かい始めた時期だと言えるでしょう。
十八世紀半ば以降、博物学好きの大名の間では、非常に緻密な写生図による図譜も、まとめられるようになりました。これらは互いに模写されるなど、情報の交換も行われていました。
また、顕微鏡の普及に伴い、植物のおしべ・めしべ、昆虫などを観察した写生図も描かれるようになりました。
茂義も、各地で鉱石を採集したり、「日本ニ居ル鳥ハ一ツトシテ居ラヌモノハナイ」と言われるほど多くの種類の鳥を飼ったり、河鹿や昆虫を飼って繁殖させたりしたと、古老たちからの聞き書き(注1)は記しています。食膳に上った魚の骨を傷めないように残し、骨格を標本として保存したとの話もあります。
飼育されていたらしい鳥の写生、顕微鏡で観察した雪の結晶を描いたとされる煎茶椀などが、今に伝えられています。
※注1 『浄天公附近古武雄史談』(「武雄鍋島文書目録」B−46)
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