武雄領から佐賀藩へ



高島流神文納

高島流神文納
坂部三十郎明矩ら四十六名が鍋島茂義に対し、萩野流砲術を学ぶにあたりその技術を他にもらさないことを誓った起請文です。

 天保七年(一八三六)中に武雄での大砲鋳造に成功した鍋島茂義は、天保八年九月十六日、武内の真手野で、試し打ちを行いました。
 二日後の十八日には茂義の他、平山醇左衛門ら十名の打手が三十一打を放つ、おおがかりな演習も行っています。
 醇左衛門が長崎の砲術家高島秋帆に入門してからわずか五年、茂義の熱意のほどがうかがえます。 こうして武雄に導入された砲術は、本藩士坂部家の養子となった茂義の弟坂部三十郎を通じ、佐賀藩にも伝えられました。
 天保十一年には神埼において、藩主斉正(後に直正と改名。閑叟と号する)の前で、試射を成功させています。
 試射を見た斉正は、本藩にも西洋砲術を本格的に取り入れることを決め、醇左衛門や、神埼での試射に参加した武雄家臣浦田八郎左衛門、横田善吾に指導を命じました。
 また嘉永三年(一八五〇)、鉄製大砲鋳造のため佐賀城西北の築地に反射炉が築かれたおり、使用された耐火レンガなどは、武雄の三ノ丸窯(現在の武雄高校内)で焼かれたとも言われます。
 天保十三年、高島秋帆が讒言のために罪を得ると、佐賀の砲術は威遠流と名を改めました。けれどその歩みは止まることなく、明治維新に大きな役割を果たすところまで成長して行くのです。
 さらに安政元年(一八五四)、佐賀藩で蒸気船製造が始まると、その責任者に茂義が任命されました。ちなみに、武雄からこの事業に参加した馬場磯吉は、翌年幕府が始めた海軍所にも、第一期生として学んでいます。
 武雄が導入した技術は、佐賀藩に影響を与え、大きく開花したのです。


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