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旗指物 |
武雄領二十九代領主鍋島茂昌は、先代茂義の隠居に伴い、天保十年(一八三九)わずか八才で武雄鍋島家を継ぎました。
茂昌も西洋砲術を取り入れることに熱心で、慶応四年(一八六八)五月には、朝廷より『多年西洋砲術研究練兵の趣聞こし召され候に付』(注1)と、討幕軍に動員されました。
この年一月の鳥羽伏見の戦いに始まった旧幕府軍と新政府軍の戦い、いわゆる戊辰の役は、まだ終わる気配がありませんでした。特に関東以北の戦いには兵力も資金も不足し、新政府の存続も危ない状態でした。
上野の彰義隊との戦いに威力を発揮したアームストロング砲に象徴される、佐賀の近代化された軍事力は、この内戦で旧幕府軍に脅威を与えました。武雄の軍事力も、また、朝廷に知られ、新政府から活躍を期待されるほどのものだったのです。
戦いの情勢は刻々と変わり、武雄軍団の作戦地も関東から新潟、さらに秋田へと変更されました。 八月。最新のアームストロング砲を含む十門の大砲と約千人の部隊とともに、茂昌は久保田(秋田市)に上陸。九月末まで羽州(秋田・山形)を転戦しました。武雄軍団の最新式の大砲や小銃は、旧式の火器で戦う羽州の軍隊を、たいへん驚かせたと伝えられます。
十月にこの方面での戦いは終わり、十一月、軍団は武雄に戻りました。異郷にたおれた戦病死者は、十四名を数えました。
戊辰の役終結後、茂昌は中央からの任官の声を断り続け、武雄で悠々自適の生涯を過ごしました。明治七年の佐賀の役のときも、島義勇から再三決起の要請を受けながら、ついに立つことがありませんでした。
※注1 『勅状』(「武雄鍋島文書目録」L−456」)
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