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鍋島茂義肖像画 |
武雄鍋島家は中世から武雄地方に居を構え、二十代までは後藤を称していました。戦国時代末期から江戸時代初頭の混迷期、肥前の実権が龍造寺家から鍋島家に移る過程で、後藤家も鍋島家の傘下に入り、鍋島を名乗るようになりました。ちなみに、二十代領主は、龍造寺家から後藤家へ養子に入っています。
江戸時代の武雄領は龍造寺系の他の三家とともに、藩の請役(家老)を務め、領内では大幅な自治を許されていました。
鍋島茂義は、この武雄領の第二十八代領主です。二十三歳の若さで佐賀藩の請役(筆頭家老)に異例の抜擢をされたほどの人物でした。
茂義は、天保年間の初め(一八三〇年頃)、長崎警備を担当した際、オランダ船を見学、西洋の進んだ科学力に深い感銘を受けたといいます。
江戸時代、西洋の学問・技術は、唯一の貿易国であったオランダ(漢字では和蘭や阿蘭陀と書きました)を通じて日本に入ってきました。このため、これらをまとめて『蘭学』と呼びました。
後に、オランダ以外の諸外国との交渉が複雑化すると、英語、ロシア語などの外国語の研究が行われるようになり、『洋学』という言葉も生まれました。
茂義は、この蘭学・洋学を積極的に、武雄に導入しました。
手初めに最新式の火打ち銃を輸入した茂義は、次いで大砲にも目を付け、西洋砲術、大砲鋳造技術を学びました。
それ以外にも、佐賀本藩に先立つとも言われる牛痘の実施、ガラスの製作、火術・火薬の研究、写真術の導入、蒸気船の製造など、様々な仕事に取り組んでいます。
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