御船山

牟田寿一郎 (1837〜1890)


『浄天公 附近古武雄史談』


 『浄天公 附近古武雄史談』(武雄鍋島家資料 武雄市蔵)
 江戸時代後期の武雄の様子が記されている。古い時代の武雄の姿を知る意味で貴重な資料となっている。2007年、武雄市歴史資料館から『近世武雄史談』として活字化し刊行した。
  (刊本の紹介は、 こちら 

 武雄鍋島家の家臣。通称、寿一郎。忠行と称した。武雄の邑校身教館で教授を勤めた平吉誠舒の実弟。牟田家は、『山内町史』の記述によれば、中世、代々龍造寺氏に仕えた家柄。1584(天正12)年、龍造寺隆信が島原の沖田畷の戦いで戦死した時、同じく戦死した牟田紀伊守家式の二男信式が武雄領主後藤家信の家臣となり、犬走に50石の領地を得て移り住んだという。
 寿一郎は、もとは同じ龍造寺系の家臣である小川信眞の次男で、母は武雄に牛痘種痘をもたらした中村凉庵の妹にあたる。身教館に学び、その後、西洋の砲術を研究、兄平吉誠舒と協力し雷汞(らいこう)(雷管の発火薬)を作る試験器を開発、1856(安政3)年には雷汞も完成させたという。当時、三間坂村に知行を得た牟田信行の娘を妻とし、養子となった。
 1865(慶応元)年『石席惣着到』(武雄鍋島家資料)には「物成五石」として養父信行にあたる「牟田右衛門左衛門」の名が見え、1869(明治2)年の『上総家来知行切米其外身格附』には「物成五石 現米壱石七斗五升 牟田寿一郎 三十三才 居所三間坂村」とあるので、この間に牟田家の家督を継いだものと思われる。
 1868年の戊辰戦争では、武雄隊の野戦砲隊の伍長として六ポンド・アームストロング砲の指揮を執った。彼の『従軍日記』(佐賀県立本丸歴史館所蔵)には、秋田から酒田にかけて羽州方面で展開された凄絶な戦闘の様子が記され、兄平吉誠舒の『従役日誌』(個人蔵)と併せ、貴重な記録となっている。日記中には自作の和歌も織り込まれ、9月12日の長浜の戦闘で、武雄隊の一兵士御厨(みくりや)源三郎が17才という若さで戦死を遂げた折には、「御厨を惜みて」と題し「山桜咲くへき花とて思へともつほみの内に散るそかなしき」と手向けの和歌を詠じている。
 寿一郎の二男悌一が昭和の初め頃に記した『浄天公 附近古武雄史談』(武雄鍋島家資料)は、寿一郎からの聞き書きが主となっている。佐賀藩への洋学導入の立役者と言うべき武雄領主鍋島茂義(浄天)を中心に、いち早く近代化に取り組んだ武雄の様子が語られており、まさに武雄史研究のバイブル的な位置付けとなっている。

※本稿の執筆にあたっては、山北モトさんの御協力をいただいた。

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