エレキテル



エレキテル

武雄に残る起電機

 エレキテルと言えば、江戸時代、平賀源内が製作したものがよく知られていますが、当初はオランダから伝わった摩擦起電機のことを指しました。語源はオランダ語の「electriciteit」がなまったもので、明和二年(一七六五)の『紅毛談』に「エレキテリセイリテイ」として、初めて日本に紹介されました。ただし、構造等は正しく記されていなかったようです。
 世界で初めて起電機が作られたのは一六六三年。その後次第に改良が加えられましたが、摩擦型起電機から、高い電位を得られる誘導型起電機への移行は、一七七五年、ボルタの電気盆の発明を待たなくてはなりませんでした。日本でも佐久間象山が、万延元年(一八六〇)に誘導型を応用した電気医療器を作りました。
 武雄に残るエレキテルは、一七六八年にラムスデンが作った摩擦起電機に類するものと思われます。源内が明和七年(一七七〇)に長崎で購入し研究の元としたのも、ラムスデンの摩擦起電機の簡単なものだったと考えられています。大坂の橋本宗吉も、摩擦型の起電機を元に研究を行い、日本で初めて電気についての科学的研究の成果を『阿蘭陀始制エレキテル究理原』にまとめました。
 このエレキテルは、ガラス円板を回転させ、革の擦手と摩擦を起こして帯電させます。帯電した電気はライデン瓶と呼ばれる蓄電器に蓄電したのち、放電させます。残念ながら武雄に残っているのは起電機のみで、ライデン瓶と思われるものなどは残っていません。
 一般には見世物や医療用に珍重されていたとされるエレキテルですが、武雄での用途は、はっきりしません。


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