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理科学用ガラス器具 |
奈良時代以降、低迷していたガラス作りが、再び盛んになるのは十七世紀に入ってからです。
その当時ガラスは「びいどろ」と呼ばれていました。語源はポルトガル語のVidro(ヴィーズロ)で、製法もポルトガルから伝わったとされますが、中国から伝来した可能性もあります。
長崎に始まったガラス作りは十八世紀になって、大阪、京、江戸にも広がりました。簪など、かなり安く売られていた物もありますが、多くは趣味の品、贅沢品としてあつかわれていたようです。
武雄でのガラス作りについては、天保七年(一八三六)十一月一日の清水龍門の日記(注1)に「武雄社参詣、帰路びいどろ作りを見る」と書かれています。おそらく塚崎城内(現在の武雄高校)に製造所があったのでしょう。
このころになると蘭学の広がりに伴い、理化学用、医療用の器具がガラスで作られるようになっていました。
理化学の実験は、火薬・医薬品などを作るのに欠かせないものです。その過程で、薬品の腐食に耐えるガラス器が必要とされたのでしょう。
武雄に残るガラス器には、輸入品と日本製の双方がありますが、武雄で作られたと思われるものは、実用的な理化学実験用製品がほとんどです。
材質はカリウムを含む鉛ガラスで、風化に対して弱いと推定されます。実際、残っている資料のほとんども、本来は無色透明のガラスが全体にアルカリを吹き、白濁しています。カリウムが多いのは、原料に硝石(硝酸カリウム)を用いたからではないかと考えられます。硝石は黒色火薬の原料として、武雄でも作られていました。
※注1 個人蔵(現在所在不明)
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