火薬・火術の開発



火薬の原料

火薬の原料

 武雄に導入された洋式の軍事訓練では、打上げ花火の一種である「相図(あいず)玉」が用いられました。軍隊を機能的に動かすための伝達手段として有効だったからです。
 相図玉には、ブランドコーゲル(信号弾)とリフトコーゲル(照明弾)の二種類があり、煙・火花の色や形などで情報の伝達通信を行いました。「高島四郎太夫製相図細工控」(注1)に見える「琴高(きんこう)仙人」や「蘭船」等は、燃えにくい和紙でパラシュートのような袋を作り、その中で火花を輝かせるなどしていたようです。
 相図玉に用いる火薬の主な原料は、木炭・硫黄・硝石でした。木炭と硫黄は手に入れやすかったのですが、硝石は最初、輸入に頼りました。後には武雄領でも製造するようになり、武内町などに残る「づうめき」の地名は、臓物を埋めて硝石を製造したなごりと言われます。
 また、火花や煙に色をつけたり、燃焼時間に変化をつけたりするためには、樟脳、雲母、硝子末、鶏冠石、銅粉など、色々なものを配合しました。(注2)
 もっとも、当時の火薬は燃焼温度が低く(一七〇〇度位)、鮮やかな色は作り出せませんでした。赤や緑などのはっきりした色が出るようになるのは、明治十二年(一八七九)頃。塩素酸カリウムが輸入されて花火に使われるようになり、燃焼温度が二〇〇〇度以上となってからです。
 塩素酸カリウムは、ヨーロッパでは一七八六年頃から使われ、武雄でも天保九年(一八三八)には、製法をオランダ商館員に問い合わせていますが(注3)、実際に使用された証拠は残っていません。
 また、火薬を爆発させるために必要な、雷管の開発にも努めました。

※注1 「武雄鍋島文書目録」I−86」
※注2 『火術製薬備忘録』(「武雄鍋島家歴史資料目録(前編)」二−2−20)
     『薬製』(「武雄鍋島文書目録」I−126」)

※注3 『長崎方控』(「武雄鍋島家歴史資料目録(前編)」二−2−10)



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