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六分儀 |
十八世紀以降、新田の開発や新たな産業を起こすため、土地を測量する技術の需要が増大します。
十九世紀には、日本近海にロシアやイギリス、アメリカなど、諸外国の船が姿をみせ、交易や寄港を求めるようになりました。このため、海防の必要からも測量の新技術が求められました。
伊能忠敬が蝦夷地(北海道)の測量に出発したのも、寛政十二年(一八〇〇)のことです。武雄近辺も、分隊が、文化十年(一八一三)九月二十二〜二十四日に測量しています。
武雄では、新たに導入した西洋式の砲術の訓練のうえで、射程までの距離や高度を測定し、着弾地の状況を観察することが必要でした。
また、長崎湾外の諸島は佐賀藩領であり、佐賀藩は幕府の命令による長崎警備とは別に、これらの島においても海岸防備体制をとる必要がありました。
このため、長崎港周辺の精密な地図の作成、砲台の築造、沿岸監視強化などの必要が高まりました。嘉永〜安政年間(一八四八〜五九)には、伊王島・神之島に新たな台場(砲台)が築造されています。
武雄に残る西洋の測量具、六分儀やポケットセキスタント、トランシット(角度測定器)、望遠鏡などは、こうした目的で購入されたものと思われます。
六分儀は天体の高度や角度を測定し、観測者の緯度を計る器具です。主に大洋を航海する船舶に使用され、セキスタントとも呼ばれました。
さらに、長崎の御用職人・金子吉兵衛にも、測量具や砲術用の角度測定器などを作成させています。
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