ボンベン野戦砲 (武雄鍋島家資料 武雄市蔵)
1935(昭和10)年、武雄鍋島邸(現在の武雄市文化会館)から出土した18門の大砲のひとつ。武雄領内で鋳造された可能性も指摘される。
武雄領、さらには佐賀藩への蘭学導入に力を注いだ武雄領主鍋島茂義(1800〜62)の御側役を数十年にわたり勤めた。1819(文政2)年の『御家中由緒系図』(武雄鍋島家資料)等をもとに編集した武雄家中系図(石井良一編)によれば、武雄鍋島家の家臣で、25石取の弓足軽物頭を勤める木村忠保の三男として生まれた。はじめ太次郎、礼蔵、忠興、のち忠俊を名乗った。仲兵衛は一度、母方の婿養子となり「立野」姓となった。武雄の儒学者で、また兵法も講じた立野元定の父にあたるが、元定の誕生後、木村の姓にもどった。
武雄への蘭学、特には西洋軍事技術の導入を推進する上で、中心的な役割を果たしたと考えられ、武雄歴史研究会発行の「湯か里」53号で今泉信彦氏は、茂義の側近であった彼の指揮のもと、平山醇左衛門、中村群治(凉庵)、馬場磯吉らの優秀な家臣が動員されたとし、また、茂義の実弟で佐賀本藩坂部家の養子となった坂部又右衛門(三十郎)とも密接な連携を取りながら、本藩への技術移入に努めたと論ずる。氏が整理された「今泉文書」には、武雄の歴史を紐解く上で貴重な木村仲兵衛関係の膨大な資料が含まれている。
仲兵衛は、茂義の死後、職を辞したが、家督を継承した茂昌から、