平成24年度 武雄市図書館・歴史資料館企画展

没後150年 先見の領主

鍋島茂義

茂義肖像  鍋島茂義は、第27代武雄領主鍋島茂順の5男として誕生しましたが、兄たちの早逝により第28代領主となりました。家督を継ぐ前、部屋住み時代に藩の請役(国家老)に抜擢されるほどの俊才で、14歳年下の貞丸、後の第10代佐賀藩主鍋島直正の教育係も務めました。
 天保年間(1830年代)に入ってからは、積極的に蘭学、特に西洋式軍備の導入を進めました。天保10(1839)年、家督を幼少の茂昌に譲り、藩政から身を引いてからも精力的に活動し、幕末期、雄藩として名を馳せた佐賀藩の近代化の礎を築きました。
 茂義没後150年に当たる今年、武雄市図書館・歴史資料館では茂義の生涯と事績を追う展覧会「先見の領主 鍋島茂義」を開催し、その功績を市民の皆様に改めて紹介いたします。
 

場所:企画展示室・メディアホール(観覧無料)
期日:平成24年9月22日(土)〜10月21日(日)
※好評につき23日(火)まで展示を延長します。
 
ギャリートーク:いずれも13:30〜
9月22日(日)・10月8日(土)・21日(日)

 

展示物の一部を下に紹介します。関連図は こちら (別窓 PDFファイル127kb)
 
 

  先見の領主 鍋島茂義

 佐賀藩武雄領の領主(邑主)鍋島茂義は、寛政12(1800)年の10月25日に生まれた。文政5(1822)年には、異例の若さで佐賀藩の請役(家老)に抜擢されるほど有能な人物であったと思われる。また、佐賀藩10代藩主の鍋島直正(1814〜71)の14歳年長で、直正の成長過程においても少なからず影響を与え、文政10年には、直正の姉寵子と結婚した。
 天保3(1832)年8月に武雄鍋島家の家督を継いだが、激しい気性でもあったのか、政策等のうえで前藩主との衝突も多く、同年に藩の請役を罷免されて以降は、藩政から一切身を引くことになった。
 しかし、茂義はこの後も、西洋の知識・技術の習得や文物の移入に積極的で、武雄領への蘭学導入に努め、佐賀藩、そして日本の近代化を推進する「陰の主役」として多大の役割を果たした。

 

参考リンク  しげよしってどんな人?    寵徳院ちょう子  

 
波濤文羅紗陣羽織
   
 

波濤文羅紗陣羽織

天保8(1837)年 一領
武雄鍋島家資料 武雄市蔵

箱書きに「天保八年改御陣羽織」とあり、茂義が着用したものと推察される。黒字に金モールで波濤文が施され、武雄鍋島家の家紋「抱き銀杏」が配される。

 
   
 
 

  武雄の砲術

 鍋島茂義が家督を相続した天保3(1832)年、茂義は長崎の西洋砲術家高島秋帆(しゅうはん)のもとに家臣平山醇左衛門を入門させた。平山の高島流砲術入門は佐賀藩としても初めてのことで、天保5年には茂義自身も高島の門に入った。
 天保6年8月、長崎の高島秋帆の一行が武雄を訪れた。西洋式軍隊と砲術実施について適当な場所を見分してもらいたいとする武雄側の意図があり、一方で、高島も調練の大規模実験場を武雄に求めたためではなかったかと思われる。武雄に残る日本人によって初めて鋳造されたモルチール砲も、この時、武雄にもたらされた。
 天保7年4月14日、茂義は高島秋帆より「砲術御皆伝」を許された。また、高島の武雄訪問が刺激となり、領内でも大砲製作の準備が開始され翌年十一月頃には武雄で大砲が鋳造されたと思われる。天保8年3月には、現在の武雄市武内町真手野(まての)の御台場で本格的な砲術訓練が開始され、9月16日には、高島流砲術の皆伝を受けた茂義による初めての試打がついに実現した。
 茂義に始まる武雄の大砲プロジェクトは、この後、佐賀藩に伝えられ大きな発展を遂げることとなった。

 

参考リンク  武雄の時代〜西洋砲術導入の軌跡〜 

 
   
 

金唐皮胴乱

江戸時代後期 一点
武雄市蔵

 胴乱(どうらん)とは、早合(はやごう)(一発分の玉と火薬をセットにした筒状の薬莢)や、火打ち金、火縄、せせり(火門清掃用の針)などの小道具を入れる携帯用の腰鞄のことで、皮、または羅紗(らしゃ)布などで作った方形の入れ物。「午年より長崎高島四郎太夫より御調入物其外控」には、高島一行が天保6(1835)年8月、茂義への土産として武雄に持参したものに「金唐皮胴乱」とあり、金唐皮製の胴乱があったことが記される。

 
   
金唐皮胴乱
 
 

  武雄の蘭学資料

 武雄では、天保年間(1830〜44)の始め頃から、武雄と長崎を往き来する家臣に命じ、オランダ商館や通詞(通訳)、商人・職人などから、江戸時代唯一の貿易港長崎に集積されるさまざまな物品を購入していた。
 その事実を克明に記録した貴重な資料が、武雄鍋島家資料中の「長崎方控」で、武雄領主鍋島茂義の「買いもの帳」ともいうべきものである。本来は五冊からなるものだが、残念ながら第一冊の行方はわからない。それでも、残された第二冊から第五冊が筆録された年代は、天保9(1838)年から、茂義が亡くなる文久2(1862)年まで25年間に及んでいる。武雄に残された蘭書を始めとする蘭学関係の多くの資料は、武雄領主の鍋島茂義の時代に蒐集されたものであることが、この「長崎方控」の記述から解る。
     これらは、いずれも従来の蘭学研究に多くの波紋を投げかけ、同時に、日本の近代化の謎を解き明かすヒントとなる貴重な資料群で、いまや日本国内のみならず世界からも大きな注目を集めている。

 

参考リンク  武雄の科学技術    武雄の蘭書   長崎方控の世界  

 
淨天様御手許御書物帳
   
 
 

淨天様御手許御書物帳

文久3(1863)年 一冊
武雄鍋島家資料 武雄市蔵

「浄天」とは、文久2(1862)年に亡くなった茂義の戒名。この資料は、茂義が亡くなった翌年に茂義の蔵書を調べたもので、和書・蘭訳書などの目録となっている。記録されている蔵書は19分類645の書名、3000冊に及ぶ。砲術・測量術・医術など蘭学関係のものから、茶道・和歌・生花など、たしなみの分野にも及ぶ。

 
 
 
 

  皆春齋の絵画

 皆春齋は、武雄領主鍋島茂義の雅号(文人・学者・画家などが名乗る風雅な別名)である。大正6(1917)年刊の『西肥遺芳』には皆春齋の項に「武雄領主鍋島十左衛門茂義画を善くす、後藤皆春齋と号せり」と記され、大正15年刊の『佐賀先哲遺墨集』には「耕作図」が掲載されています。また、昭和31(1956)年刊の『武雄史』(石井良一著)には「皆春齋が古画を好み小城藩主と古画を交換し賞玩したこと、絵を武雄の絵師良寛心海に学んだこと、現存作品が少ないこと、皆春齋の子で同じく武雄領主となった茂昌も父に絵を学んだこと」が指摘されている。
 良寛心海は、江戸で狩野派に学んだ絵師で、皆春齋の画風も狩野派の流れを汲むものという指摘があるが、実際に、武雄鍋島家資料中の「浄天公 附 近古武雄史談」には「公ハ狩野派ノ絵画(江戸ニテ狩野良信ニモ就カレタ)ニ長ジラレ往々御執筆ナサレタ」との記載もみられる。
 また、皆春齋の残した絵具・絵道具類も、日本国内にも全く類例のない貴重な資料である。

 

参考リンク  皆春齋   皆春齋の絵道具    皆春齋 鍋島茂義の絵と絵の具  
 
       植物図絵の世界   青へのあこがれ〜武雄に伝わる青色絵具〜  

 
探幽写し
   
 

探幽写し

江戸時代後期 紙本着色 二巻
武雄鍋島家資料 武雄市蔵

 探幽齋の絵画の写し。探幽齋は、江戸初期の画家で、鍜治橋狩野の祖。幕府の御用絵師として幅広い画技で一門の繁栄を築いた狩野探幽(1602〜74)のこと。佐賀藩が所有していた書画類の目録『御掛物帖』に見られる探幽齋の七幅対の作品「達磨」「鉄拐」「蝦蟇」「龍」「虎」「梅」「竹」が写されており、往時、佐賀城に掛けられていた作品の姿を伝えるものとして非常に貴重である。

 
   
 

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